エピローグ 青い夜と月のしずく
それから、およそ十五分後――『V8チェンソー』および『マンイーター』との歓談を楽しんだのち、『KAMERIA』の面々もいよいよ帰路を辿ることになった。
「本当は、打ち上げにでもお誘いしたいところなんだけどねぇ。こんな時間だと、世間様の目もうるさいだろうからさぁ」
「ええ。夜間の外出は午後十一時までっていうのが、県の条例ですからね」
時刻はそろそろ午後の十時に達しようとしている。午後十時以降に未成年を店内に留めるというのも、どうやら条例違反であるようなのだ。『ジェイズランド』が罪に問われないように、めぐるたちは速やかに退出しなければならないわけであった。
「じゃ、こまかい話はまた追々ってことでぇ。恐怖の期末試験とやらが終わったら、またあたしらとも遊んでねぇ」
「わーっ! やなこと思い出しちゃった! ……ま、そんな話は明日からだねー! ブイハチのみんなも『マンイーター』のみんなも、お疲れさまー!」
『V8チェンソー』と『マンイーター』の面々はまだしばらく店内に居残って、親睦を深めるようである。めぐるとしては若干羨ましくないこともなかったが、これから『KAMERIA』のメンバーで町田家に向かうのだと考えれば、物寂しいことはなかった。
「じゃ、帰ろっか! うちについたら、まずは映像の観賞会だねー! ツレが撮ってくれた動画も送ってもらったから、そっちも楽しみだなー!」
町田アンナは先陣を切って、店を出る。めぐるたちがそれに続くと、もちろん外界は夜のとばりに包まれていた。
本日は午後の三時に入店してから、一歩として外に出ていなかったのだ。なんだかもう、『KAMERIA』のライブを行ったのが遥かな昔のことのように感じられて――めぐるは、夢見心地であった。
そうして四人のメンバーは、やいやい騒ぎながら駅を目指す。
すると――街路の片隅に、ぽつんと立ち尽くしている人影があった。
めぐるたちがそれを迂回しようとすると、その人影が「あ……」と弱々しい声をあげてくる。
そちらを振り返っためぐるは、思わず息を呑んでしまった。それはあの、小柄で丸っこい体型をした三十歳ぐらいの女性であったのだ。
「ご、ごめんなさい。『KAMERIA』のみなさん……やね?」
独特のイントネーションで、その女性はおずおずと話しかけてくる。
その目が赤く泣き腫らされていることに気づいためぐるは、いっそう困惑することになった。
「んー? どこのどちら様? もしかして、今日のライブのお客さん? なんか元気がないみたいだけど、どーしたの?」
親切な町田アンナが足を止めて、そのように言葉を返す。いっぽう栗原理乃は、こそこそと幼馴染の背中に隠れてしまった。『ジェイズランド』で彼女の姿を見たのは、めぐると和緒のみであったのだ。
「ああ、一階のバーフロアでうちのプレーリードッグと背中をぶつけたお人ですよね。こんなところで、どうしたんです?」
と、和緒も声をあげながら、さりげなくめぐるの身をかばおうとする。
その女性は、感情の定まっていない面持ちで微笑んだ。
「実はみなさんに、ライブん感想ばお伝えしとうて……いっぺんホテルに帰ったっちゃけど、我慢できんでまた戻ってきてしまったばい」
「ライブの感想を? もしかして……当日券で入場してくれたのは、あなただったんですか?」
「そうばい。それも、我慢できんかったばい」
表情は曖昧であるが、その眼差しは澄みわたっている。
そしてその女性は、驚くべき言葉を口にした。
「和緒ちゃんっていうとは、あんたね? うちは……ちぃ坊ばい。『ちぃ坊の猫屋敷』ん管理人、中嶋千尋ばい」
めぐるは、その場に立ちすくんでしまった。
町田アンナは、「えーっ!」と素っ頓狂な声を張り上げる。
「それじゃああの、『SanZenon』の元ドラマーってこと? なんでなんで? 今日のライブは映像で送るって約束してたっしょ?」
「だから、我慢できんかったばい。うちは昔っから、こらえ性がなかけんね」
そう言って、その女性――『SanZenon』のドラマーであった中嶋千尋は、丸っこい顔にやわらかい微笑をたたえた。
「こん十年で二十キロぐらい太ったけん、わからんやったやろ? まああんライブ映像じゃあ、ドラムなんてほとんど映っとらんかったしね」
確かにあのライブ映像ではベーシストの姿ばかりが映されていて、ドラムやギターなどは人相もわからなかった。ただし、どちらもベースの彼女に負けないぐらい痩せ細っていたはずである。
なおかつ彼女は、めぐるに負けないぐらい小柄である。これで体重を二十キロも減らしたら、めぐると変わらない体格になってしまうだろう。それであれだけ荒々しいプレイを見せていたというのは――なかなかに想像し難いところであった。
「へー! それならそれで、連絡くれればよかったのにー! そしたら当日券あつかいにならないで、五百円安くすんだんだよー!」
「連絡は、できんやったばい。うちらんカバーが期待外れな出来やったら、なんて言やあよかかわからんやったし……『SanZenon』に関してだけは、嘘ば言いとうなかったしね」
そのように語りながら、中嶋千尋は泣き腫らした目に新たな涙をにじませた。
「ばってん、期待以上ん出来栄えでん、けっきょく何て言うてよかかわからんやったけん、こげえして逃げ出してしもうたけど……我慢できんで、戻ってきてしもうたとよ」
「……さっき、ホテルに帰ったって仰ってましたよね。もしかしたら、お住まいが遠いんですか?」
和緒がそのように問いかけると、中嶋千尋は子供のようにこくりとうなずいた。
「うちはもともと博多ん生まれやったけん、『SanZenon』がのうなったあと、故郷に逃げ帰ったっちゃん。……ミアが死んでしもうたら、もうバンドなんて続くる気になれんやったけんね」
「……あのベースのお人は、ミアと仰るんですか」
「うん。鈴島美阿。……そん名前ば口にするとも、何年ぶりやろうね」
中嶋千尋が懐かしそうに目を細めると、つややかな頬に涙が滴った。
「ミアは、イカレてたばい。バンドんことしか頭にのうて、いつも無茶苦茶な生活で……最後はバイクで事故ば起こして、呆気のう死んでしもうた。うちらばこげん夢中にさせて、ひどかよね。こげん苦しか思いばするなら、ミアなんかに出会わなよかったっちゃ何べんも思うたばい」
「…………」
「ばってん、今日んライブば観て……少しだけ、救われたような気持ちなんやっちゃん。うちらがやってきたことも……ミアがこん世におったことも、無意味ではなかったんばいって思えたけん。あんたたちは、ほんなこつ素敵やったけんね」
そうして中嶋千尋は音もなく進み出て、めぐるの手をつかみ取ってきた。
「小しゃな手やなあ。ばってん、ミアに負けんぐらいタコができとうし……ミアに負けんぐらい、素敵なプレイやった。あげん馬鹿に憧るう人間がおるなんて、最初は信じられんやったけど……あんたんおかげで、うちは救われたばい」
「あ、いえ……わたしは……」
「あはは。そげんこと言われたっちゃ、薄気味悪かだけばいね。ばってん……うちと同じぐらいあん馬鹿に夢中になる人間がおってくれて……うちは、ばり嬉しかったっちゃん」
最後にぎゅっと力を入れてから、中嶋千尋はめぐるの手を解放した。
ただその涙に濡れた目は、ずっとめぐるを見つめ続けている。
「うちん言うことなんて気にせんで、あんたはバンドば頑張りんしゃい。それだけで、うちは嬉しかっちゃん。ミアに心ば奪われた人間が、ベースば弾いて、バンドばやっとうだけで……うちは勝手に、救われた気分になるうけんさ」
それでもめぐるが答えられずにいると、中嶋千尋は町田アンナと栗原理乃のほうに目をやった。
「うちはめぐるさんと和緒さんの名前しか知らんの。よかったら、あんたたちも名前ば教えてくれる?」
「ウチは町田アンナで、こっちは栗原理乃だよー! 『SanZenon』の曲はあれこれアレンジしちゃったけど、問題なかったかなー?」
「問題なんて、あるわけなかばい。うちらより派手にアレンジされて、きっとミアも地獄で悔しがっとうさ」
「あはは! それでもまだまだ、『SanZenon』の足もとにも及ばないけどねー!」
いつも通りの朗らかな笑顔で、町田アンナはそのように言いたてた。
しかしその鳶色の瞳には、とても優しい光が灯されていたし――いっぽう栗原理乃は、凛々しい面持ちで中嶋千尋を見つめていた。
「今日はわざわざ来てくれて、どうもありがとーね! 次に来るときは、連絡ちょーだいよ! チケット、キープしておくからさ!」
「ありがとう。ばってん今日も、旦那んお母さんに無理ば言うて、子供ば預かってもろうたっちゃんね。こう見えて、二児ん母やけんさ」
「そっかそっか! 迷惑じゃなかったら、毎回動画を送るから! お子さんたちと、一緒に楽しんでよ!」
「あはは。『KAMERIA』ん音楽で育ったら、狂暴な子供になりそうやなあ。でも、嬉しいばい。今日ん映像も、楽しみにしとうけんね」
そう言って、中嶋千尋は深々と頭を下げた。
「それじゃあ、今度こそ帰るけんね。今日は、ほんなこつありがとう。めぐるさんだけじゃなく、みんなに感謝しとうばい」
「そんなの、こっちのセリフだよー! 『線路の脇の小さな花』は、めっちゃ楽しいから! ライブの定番曲にさせていただくよー!」
「ありがとう」と繰り返して、中嶋千尋はきびすを返した。
まったく気持ちも定まらないまま、めぐるは「あの!」と呼び止めてしまう。
「こ、こちらこそ、ありがとうございました! あのライブ映像に出会ってなかったら、わたしは……つまらない人生のままでしたから!」
「あはは。大げさやねえ」
「お、大げさじゃありません。わたしは本当に、どうしようもない人間で……どうしようもない人生を送っていたんです」
めぐるは、おもいきり頭を下げた。
すると、いつの間にか目もとからこぼれていたものが、アスファルトに黒いしみを作る。それを見つめながら、めぐるは精一杯の気持ちを振り絞った。
「あ、あの映像を世に出してくれて、ありがとうございます。それに……『SanZenon』っていう素敵なバンドを作ってくれて、ありがとうございます」
めぐるが顔を上げると、中嶋千尋は首だけを曲げてこちらを見ていた。
その丸っこい顔には、また新しい涙が浮かべられて――そして、地蔵菩薩のように静かな微笑がたたえられていた。
「こちらこそ、どうもありがとう。でくることなら……生きとう間に、ミアに会わせてあげたかったばい」
それが、中嶋千尋の最後の言葉であった。
夜闇の向こうに、その小さくて丸っこい姿が溶けていく。それはめぐるたちの帰路と同じ方向であったが、その姿が完全に見えなくなるまで足を踏み出す気持ちにはなれなかった。
「……ったく。今日は泣き顔を見ずに終わるかと思ってたのにさ」
と、和緒がめぐるの顔にハンカチを押しつけてきた。
めぐるは無理やり笑いながら、それを受け取る。いまだに心は千々に乱れていたので、声を出すことはできなかった。
自分が何に対して取り乱しているのかは、めぐるにもわからない。
『SanZenon』の元メンバーに素敵な演奏だと言ってもらえたことが嬉しいのか――鈴島美阿という名を持つあの女性がすでに死んでいることを実感してしまったのが悲しいのか――『SanZenon』がこの世に生まれたことが嬉しいのか――『SanZenon』がこの世から無くなってしまったことが悲しいのか――あらゆる思いが、めぐるの胸に渦巻いているようであった。
(でも……)
『SanZenon』は消えて無くなってしまったが、その音はこの世に残されている。そして、『SanZenon』が存在したからこそ、『KAMERIA』も生まれ出たのだ。めぐるにとっては、それが一番の喜びであるはずであったし――もしかしたら、中嶋千尋も同じように思ってくれているのかもしれなかった。
(わたしは、ベースを……『KAMERIA』を頑張ろう。いつか、鈴島美阿さんに……『SanZenon』に追いつけるように)
めぐるは、『KAMERIA』のメンバーを振り返った。
和緒は相変わらずの、ポーカーフェイスだ。
町田アンナは満面に笑みを浮かべており、栗原理乃はまだ凛々しい表情を残している。
ただ――誰もが、優しい眼差しでめぐるを見つめてくれていた。
「じゃ、ウチらも帰ろっか! 補導なんてされちゃったら、楽しい気分も台無しだしねー!」
「うん。反省会もしないといけないしね」
「あのね、家に戻る頃には十一時だよ? 今日ぐらいは、ゆっくりさせてもらいたいもんだね」
そうしてめぐるたちは、暗い街路に足を踏み出した。
途端に、深い既視感がめぐるに降りかかってくる。最初のステージをやりとげた七月の終わりにも、めぐるたちはこうして四人だけで夜道を辿ることになったのだ。
あの頃と同じように、先行きは暗闇に閉ざされている。
しかしめぐるはあの夜もよりもさらに幸福で満ち足りた心地で、足を踏み出すことができた。
街路には、十一月の下旬に相応しい寒風が吹きすさんでおり――ついにこの秋も、終わりを迎えたようであった。




