第四話 判断の持ち主
事故の翌朝、厨房は静かだった。
音が少ないのではない。音を立てないようにしている、という静けさだった。
捨て場は片付けられ、袋ももうない。だが床の隅に残った水の跡が、昨夜を消しきれていない。
レインはそこを一度だけ見て、視線を上げた。
「今日の仕入れは、予定通りです」
現場責任者が言う。声は平常通りだが、語尾がわずかに硬い。
予定通り、という言葉の中に、昨日の失敗を“例外”として閉じ込めたい意図が見える。
「例外にすると、また起きます」
レインは即座に言った。責任者は言い返さなかった。
代わりに、奥から経営側の男が現れた。帳面ではなく、何も持っていない。
話すために来た人間の手だった。
「少し、時間をもらえますか」
厨房を離れ、事務室に入る。窓は閉まっていて、音が遮断される。
ここでは判断は火も匂いも伴わない。数字と契約の言葉だけが残る。
「昨日の件ですが」
男は切り出した。
「現場としては、想定内の廃棄です」
レインは頷かなかった。
想定内、という言葉が何を覆っているかを考えていた。
「想定していたなら、その判断は、誰のものですか」
男は一瞬、言葉を止めた。
責任を問われるとき、人は必ず立場を探す。
「現場の動きもありますし……」
「判断が、途中で変わった」
レインは遮るように言う。
「それは、判断ではありません」
現場責任者が口を開く。
「だが、最終的に出た料理は問題なかった」
「問題は、料理じゃない」
レインの声は低かった。怒りではない。訂正だった。
「判断が伝わらなかった。それを“問題なし”にすると、次はもっと大きく壊れます」
経営側の男は椅子に腰を下ろし、ゆっくり息を吐いた。
「あなたの言うことは、正しいと思います」
そう前置きしてから続ける。
「ただし、正しさだけで現場は回らない」
それは今まで出なかった言葉だ。事故のあとだからこそ、出てきた。
「誰が最終判断者なのか」
男は言った。
「それを、はっきりさせたい」
レインはその言葉を待っていた。だから、間を置かずに返す。
「私です」
現場責任者が驚いたように顔を上げる。経営側の男も、わずかに眉を動かした。
「ただし」
レインは続ける。
「判断が現場で変更された場合、その結果は、私の判断ではありません」
「それでは、責任の所在が——」
「はっきりします」
レインは言い切った。
「判断を変えた人が、持つ」
事務室の空気が重くなる。それは誰かを責める提案ではない。
だが、誰かが逃げられなくなる提案だった。
「現場は柔軟であるべきです」
現場責任者が言う。
「すべてを契約で縛ると——」
「縛りません」
レインは首を振る。
「持ち主を決めるだけです」
持ち主。その言葉が、事務室に残った。
経営側の男は、しばらく考えてから言った。
「では、こうしましょう」
契約書の修正案が提示される。肩書きは新しい。
――判断責任者
料理人でも、コンサルでもない。現場に口を出すが、火には立たない。
失敗すれば、説明を求められる立場。
「この肩書きを、受けてもらえますか」
レインは紙を見た。そこに書かれているのは、自由の保証ではなく、責任の線だった。
「一つ条件があります」
「何でしょう」
「厨房には、立ちません」
男は驚かなかった。むしろ、どこか納得したように頷いた。
「判断が軽くならないため、ですね」
「はい」
紙にサインはしなかった。レインはその場で持ち帰ると言った。
事務室を出ると、厨房の音が戻ってくる。
包丁、鍋、声。いつも通りだが、どこか慎重だ。
若い料理人が、レインの方を見て、何か言いたげに口を開き、閉じた。
判断は、もう個人の哲学ではない。現場全体の構造になり始めている。
その夜、レインは市場を歩いた。
仕入れ先が声をかける。
「今度は、どこまで線を引くんだ?」
レインは少し考えてから答えた。
「人が守れるところまでです」
線を引くのは、簡単だ。守らせるのは、難しい。
明日、答えを出す。
その答え次第で、この仕事は“続く”か“壊れる”かが決まる。
火に立たなくても、料理人でいられるかどうか。
それが、いま問われていた。




