第三話 作らないことが許されない日
その日は、朝から時間が足りなかった。
足りないのは人手ではない。段取りでもない。
「止まる余白」だけが、どこにもなかった。
宴会の予約は昼と夜、二本。
どちらも団体で、開始時間は分単位で決まっている。仕入れは予定通りに届き、箱は整然と積まれていた。
整いすぎている、という印象をレインは拭えなかった。
「今日は、これ以上は使いません」
レインは仕入れ表に線を引いた。前日よりも短い線だった。
理由は明確だ。数を減らさなければ、必ず余る。
余れば、必ず何かが壊れる。
現場責任者は一瞬、表を見てから言った。
「今日は……厳しくないですか」
厳しい、という言葉は便利だ。無理とも無茶とも言わずに、すべてを含ませられる。
「厳しくしないと、失敗します」
レインはそれだけ答えた。
若い料理人たちは、すでに動き始めていた。包丁の音が速い。いつもより、少しだけ速い。
時間に追われているというより、追われる前に終わらせようとしている手つきだ。
「この分、下処理しますか?」
誰かが聞いた。声は軽い。
昨日のやり取りが、すでに要約されている。
「しません」
レインは即答する。
「今日は触らない」
「でも、余ったら——」
「余らせない」
言い切った瞬間、レインは自分の言葉が“強すぎた”ことを感じた。
余らせない、というのは判断だ。だが現場では、命令に聞こえる。
命令は、必ず代替行動を生む。
昼の宴会が始まった。
料理は問題なく出る。味も、量も、破綻していない。
だが厨房の奥では、「使わないはずの箱」が一つ、開いていた。
誰が開けたのか。誰が最初に触れたのか。
それは、誰にも分からない。
「念のため」
その一言が、現場を動かす。
念のため切る。念のため洗う。念のため下味をつける。
善意の連鎖は、速い。
レインがそれに気づいたのは、すでに素材の半分が“戻れない状態”になってからだった。
「……触りましたか」
誰も即答しなかった。沈黙が、答えだった。
「今日は、使わないと言いました」
責める声ではなかった。だが責められていないとも言い切れない。
「もし足りなくなったらと思って」
若い料理人が言った。視線は下がり、言葉は早い。
その瞬間、レインは理解した。判断が、伝言になっている。
伝言は、必ず意味を削る。
「これは、使えません」
レインは切りかけの素材を見て言った。下処理が中途半端だ。
今日中に使う前提の手が入っている。だが今日は、使わない。
「でも、もう——」
「だからです」
それ以上の説明はなかった。説明をすれば、誰かが納得し、納得はまた別の解釈を生む。
夜の宴会が始まる頃、厨房の隅に、使えない素材が積まれた。量は多くない。
だが、捨てるには十分だった。
捨て場に立つ。誰も言葉を発さない。袋の中で、素材が静かに音を立てる。
レインはそれを見て、はっきりと口にした。
「これは失敗じゃない」
誰かが顔を上げる。
「失敗にしてしまった判断です」
善意だった。余らせたくなかった。助けたかった。
現場として、正しかった。だからこそ、厄介だった。
経営側は数字を見て言った。
「廃棄は、想定内です」
想定内。
それもまた、事故を覆い隠す言葉だ。帰り際、若い料理人が小さく言う。
「……作らないって、難しいですね」
レインは一度だけ立ち止まった。
振り返らずに答える。
「難しいから、仕事になるんです」
外に出ると、夜風が強かった。
明日になれば、この事故は数字に埋もれる。記録には残るが、記憶からは薄れる。
だがレインは知っている。
判断は、軽くなった瞬間に壊れる。そして一度壊れた判断は、次はもっと簡単に壊れる。
火を入れなくても、料理は壊れる。
そのことを、この現場はもう知ってしまった。




