【第七部】 判断を買われる仕事編 第一話 声がかかる
朝の市場は、以前よりも少しだけ顔ぶれが変わっていた。
人が入れ替わったわけではない。だが、声の掛け方が変わっている。
レインが通ると、何人かが視線を向け、言葉を探すように口を開きかけて、結局やめる。
「最近、変な噂が立ってるぞ」
青果商が、帳面を閉じながら言った。変な噂、という言い方が、この市場らしい。
評価でも悪口でもない。ただ、扱いに困るときの言葉だ。
「仕入れを減らす料理人がいるって」
レインは足を止めずに答えた。
「減らしてるんじゃない。揃えてないだけです」
青果商は鼻で笑った。
「どっちでもいいさ。ただな、あんたの名前が出ると、“ああ、あの判断が細かい人か”って言われるようになった」
細かい。料理人にとって、褒め言葉にも文句にもなる言葉だ。
レインはそれを受け取らず、市場の奥へ進んだ。
その日の昼過ぎ、食堂に一人の客が来た。常連でも、通りがかりでもない。
椅子に座る前から、店の中を観察する目をしている。
「レインさんで、間違いありませんか」
男は名刺を出さなかった。代わりに、店の壁や棚を一通り見てから言う。
「料理の話は、今日は結構です」
その言い方に、レインはわずかに目を上げた。
男は続ける。
「判断の話を聞きに来ました」
昼の静かな時間帯だった。鍋も火口も、今日は使われていない。
それが、この店の“いつも”だと男は言外に理解している様子だった。
男は、中規模の宿を運営しているという。
朝食、夕食、宴会。
料理の質が悪いわけではない。だが、材料のロスが多い。
料理人は真面目だが、疲弊している。
「作りすぎている、という自覚はあります」
男は言った。
「でも、作らない勇気がない」
レインは黙って聞いた。
勇気という言葉を、料理の現場で使う人間は少ない。
作ることは評価される。作らないことは、説明を求められる。
「あなたは、作らない判断をする人だと聞きました」
聞きました、という距離感が正確だった。
男は評価も期待も、まだ置いていない。
「厨房には立っていただかなくていい」
男は言った。
「仕入れと、使う・使わないの判断だけを見てほしい」
判断だけ。
それは今まで、レインが一人で引き受けてきたものだ。
今、それを“業務”として切り出そうとしている。
「契約、という形になります」
男はそう言ってから、少しだけ言葉を選び直した。
「責任の所在を、はっきりさせたいんです」
その言葉に、レインは初めて視線を外した。
責任をはっきりさせたい、というのは正しい。
だが“はっきりさせる”とは、分けることでもある。
「判断はします」
レインは言った。
「ただし、結果までは引き受けられません」
男はすぐには返さなかった。その沈黙の中で、レインはひとつの違和感を覚えた。
この話は、判断を軽くする可能性がある。
「失敗した場合は?」
男が聞く。
「判断の失敗なら、引き受けます」
レインは続ける。
「ただし、判断が伝わらなかった失敗は、別です」
男は少し困ったように笑った。
「その線引きは……難しいですね」
難しい、という言葉は、現場で一番事故を生む。難しいから、曖昧にする。
曖昧にするから、誰も悪くない失敗が起きる。
「一度、現場を見てください」
男は言った。
「来週、大きな予約があります」
大きな予約。その言葉が、レインの中で静かに引っかかった。
作らない判断が、一番通りにくい日だ。
帰り際、男は何気ない調子で付け加えた。
「現場の若い子たちは、あなたの話を聞きたがっています」
それは、期待の言葉でもあった。同時に、危うさの兆しでもある。
言葉は、必ず途中で簡略化される。判断は、必ず誰かの“善意”に翻訳される。
男が帰ったあと、レインは市場へ向かった。仕入れ表を一枚、受け取る。
数が多い。整っている。そして、どこか無理がある。鉛筆で一本、線を引いた。
「今日は、ここまで」
その線が、現場でどう受け取られるか。
守られるのか。補われるのか。あるいは、善意で越えられるのか。
レインは、その答えをまだ知らない。
ただ、はっきりしていることが一つだけあった。
火に立たなくても、判断が軽くなった瞬間、料理は簡単に壊れる。
その兆しが、もう静かに始まっている。




