19:灰色のたとえ話
本日、期間を空けるのも微妙な話のため連続で更新します。
侵入してきた久しぶりの獲物を殺めたことで、それがそびえる海域は再び一定以上の大きさの生き物がいない、静寂の海域へと立ち戻った。
同時に、先端を斬られた触手、すでに一七八本に増えたものの内の一本の再生が再開されて、遠方へとむけて伸ばした触手、その一本一本が獲物を捕らえて補給した養分が、斬られた細い触手の先端へと回され、その先端に巨大な顎と最低限の判断をするための脳が形成されて元の形へと近づいていく。
今回伸ばしていた根の先端が破壊されたことでその地域へと広げていた勢力圏は若干減じたが、それとてしばらく時間をかければ再び根は伸び、その先にある領域へとその勢力を伸ばしていくこととなる。
伸ばされたその根が、その先端が人類の文明圏へと届くまであと少し。
それこそが、それを知るモノから終末装置にすら例えられる史上最大の魔獣。
目の当たりにしたトーリヤから、この後【ユグドラシルクラーケン】と名付けられたその個体は、今日も日の光を浴び、獲物を喰らって触手を伸ばし、自身が進む次なる領域へと触手を伸ばす。
「――ヅァあッ!!」
その瞬間、海を渡る筏の上で、連日の分身使用による寝不足で眠っていたトーリヤの本体は、分身から共有されたその最後の感覚に思わず飛び起きる羽目になっていた。
「ぅぎュッ!!」
「あだッ」
飛び起きて、いつの間にか自分を膝枕してこちらをのぞき込んでいたらしいシルファと額が激突して、二人そろってしばし悶絶する羽目になる。
「おいおい、なにやってんだよ……?」
「騒がしいわね」
突然の二人の様子に、決して広いとは言えない筏の隅で腕立て伏せをしていたレイフトと、その背中に重し代わりに座ったまま、付近の海水で念動の訓練がてら日傘を作っていたエルセがそろってそう声をかけてくる。
「全く、寝不足だかで船酔いしたと思ったら今度はどうしたのよ?」
【生体転写】の能力によって自身とは別に分身を活動させることができるトーリヤだったが、実のところこの能力は本体が寝ている間にいくらでも分身を働かせられるほど便利な能力という訳ではない。
トーリヤ本体と分身たちは意識下で認識や記憶を共有しているため、本体が眠ろうとするときに分身が活動していると、分身の五感情報が眠ろうとする本体の意識に流れ込んできて、周りが騒がしい中で眠ろうとしているかのような眠り難い状況になってしまう。
一応、極端に疲労しているときなどまったく眠れないという訳ではないのだが、逆に言えばそれくらいに寝入りやすいコンディションにでもなっていなければ、分身の活動中に眠るというのは至難の業だ。
海龍を討伐した後のトーリヤは、出発を急いだことと問題の分身たちを連続で稼働させた関係で睡眠不足の状態に陥っており、そのせいもあってか筏による航海の途中で船酔いし、眠気にも負けて仮眠をとりながら過ごしていた。
無論海を渡る大亀や、調査に向かわせた分身など、活動している分身たちの情報は常に流れ込んできていたのだが、さすがに今回は眠気の方が勝り、それなりによく眠っていたわけである。
つい先ほど、意識でつながる分身の一団が、遭遇したあまりにも巨大な魔物によって消滅するまでは。
「まだ気持ち悪いのか? 顔色がよくないみたいだけど」
「――ああ、いや。まあ、そんなところだ」
再び横になろうとして、なぜかその頭を掴まれてシルファの膝の上に乗せられながら、トーリヤは船酔いの気分の悪さと先ほど見た光景の衝撃で逆らうこともできずに横になる。
(――さっきのあれは、なんだ……?)
分身たちが遭遇した魔物、天を貫く世界樹のような巨大イカの存在を思い出して、トーリヤは心中でいっそ絶望的な気分に襲われる。
この五年間の修行でトーリヤ自身それなりに強くなったつもりでいたし、何より三人の子供たちの方も予想外の強さを得るに至っていた。
この点については先の海竜の討伐でも十分に証明され、ひとまず一年後に迫る魔王の襲来への備えができたと胸をなでおろしていたのだが――。
(もしもアレが魔王なんだとしたら……。あるいはあれ自体が魔王でなくとも、あれ以上の存在がこの先現れるのだとしたら……)
はっきりと断言できる。今のトーリヤ達では、なりふり構わず取れるすべての手段をとったとしても、あんな怪物は討伐できない。
実際に海竜を討伐したレイフトやシルファの攻撃力に頼っても、あの巨体が相手では指先を切った程度のダメージしか与えられないのがはっきりとわかる。
そう思ってしまうほどに、今のトーリヤ達とあの巨大イカでは生物としてのスケールが違いすぎている。
(残りの期間はあと一年……。その期間だって、俺が今生で夏の生まれだから、そこからの推測で大体一年ってくらいの目安でしかない……。もしもそれだけの期間で、あんな化け物を倒せるほどの強くなることを求められていたんだとしたら――)
この五年間の研究と修行で強くなったのだという手ごたえを感じていた。
この世界の人間の強さの指標がわからぬままわずかな文献を基準にして、あるいは明らかに強者の側だと判断したあの海竜を倒せたことで。
だがもしも、これからのトーリヤに求められる強さがこの程度のものではなかったのだとしたら。
この世界を襲うという厄災が、たった一年後に戦う羽目になる魔王が、トーリヤの想定するよりもはるかに強力な存在なのだとしたら――。
(あんな存在、いったいどうやって対抗すれば――)
「――おい。あれ、陸地じゃねぇのか?」
――と、垣間見た絶望、そこから広がる推測をもとに思考に没頭していたトーリヤを呼び戻すように、すぐそばで同じいかだに乗るレイフトが歓声に近い声を上げる。
言われて視線を上げれば、確かにそこにあるのは、トーリヤが事前に鳥の分身を駆使して確認していた、目指す陸地が近づいていた。
「トーちゃん、いい加減船酔いなんてしてる場合じゃねぇぜ。俺たちはこれから、あの島を卒業してあの陸地に出発することになるんだから」
「陸地に出発……。言わんとしていることはわかるのだけど、若干言葉としておかしくないかしら」
「――ん、ぅう……。もうすぐ、着く?」
こちらに笑いかけるレイフトに、冷静な口調で首をかしげるエルセに、そして身を起こしたトーリヤを抱きかかえるようにしながら、その頭の上に顎を乗せて陸地を見つめるシルファに、トーリヤは否応なく気分を切り替えさせることになる。
すでに希望の船出は済ませて、これから降り立つことになるのは未知の可能性に満ちた新天地だ。
厳密にはトーリヤ達のいた村と同じ大陸ではあるはずだが、それでもあの田舎の村を離れてより都会といえる人類社会の中心へと向かって旅をすれば、それこそ今までのあの島の中では触れることのできなかった、未知の可能性にも触れることはできるだろう。
(そうだ……。相手がどれだけ強大だろうが、俺のやることは変わらない)
請け負った仕事として。自身の生存のため。そして今はもう一つ、目の前にいるこの三人の子らを守るため。
(強くなる……。魔王だろうが、あの巨大イカだろうが倒せるくらいに……。もうこれ以上、危険な戦いでこの子達を頼らずに済むように……)
意を決して鳥の分身を作成して飛ばし、そうしてトーリヤはかねてより決めていた予定通りに最後の一年の活動の舞台となる大陸へとたどり着く。
迫る危機への焦燥に耐えながら、目指し見据えるその未来に、少しでも近づき至るために。
聞くものなどいない思考の領域で、一つの強い思念が木霊する。
『……しくじった』
数多の情報、過去の記憶を束ねたその結論として、その存在は呼吸など必要としない身で嘆息するかのように、「しくじった」、「失敗した」といった言語を繰り返す。
その存在が思い悩んでいるのは、かつて突発的な事態を前に下した一つの決断について。
『……迂闊、――そう、迂闊だった……。すべての条件を満たす、千載一遇のチャンスがいきなり舞い込んできたことに気を取られて、肝心な部分への思慮が欠けていた……』
己の主義信条を曲げることなく、気がかりだった問題に対して手を打てる代替案。
そのあまりにも具体的な最適解が突発的に手の内に飛び込んできてしまったために、あの時の自分はあまりに迂闊にそのアイデアに飛びついてしまった。
今にして思えばどう考えても準備不足で、あとから考えればいくつもの問題が残っていたというのに、これ以上ない機会と残り少ない時間の中で、細部を詰めぬまま手抜かりの多いその一手を実行した。
『死者の、厳密には死に際の精神情報を送り込んだこと――、これはまあいい。
どちらにしろこちらが拾っていなければ事故で死んでいたはずの生命だ……。
持たせた力も人間の体で行使するならアレがベストだったと判断できる……』
事故で死亡するその寸前、消えゆくはずだったその命に、何の因果か偶然触れてしまったことで、その存在はその生命を自身の代理とし、力を与えて問題の場所に送り込むというその手段を思いついた。
唯一、準備期間が十年程度しかないというのが当初から抱いていた不安要素ではあったが、与えた力の性質的にそちらのフォローも十分に可能な範囲ではあるし、少なくともここまでの流れについてはそこまでの問題は感じない。
問題だったのはただ一点、あの時間のない中で、とっさに彼に対して行った説明、その内容だ。
『神様、もしくはそれに近い存在を名乗ったこと――、これも別に問題はない。詳細を語れなかったことは痛手といえば痛手だが、あの状況ではそこから語る余裕はなかった。
問題があるとすればやはり、【魔王】や【勇者】といった用語をたとえ話に用いたこと……』
時間のないさなか、あの文化圏の人間であれば伝わりやすかろうと選んだ言葉の数々だったが、今にして思えば発想元(元ネタ)のイメージに引っ張られてたとえ話の選択を誤った。
なにしろ、あの時の彼が相対することになる存在、その実態は【魔王】や【勇者】という言葉の持つイメージとは決定的といっていいくらいには別物なのだ。
別段噓をついたとか、騙し、謀ったと言えるほどの偽情報を掴ませたつもりはないが、わかりやすさを優先するあまりイメージレベルでの正確性を欠いた。
現状彼が出会う存在、その立場となる相手が誰になるかは今の段階でも絞り込めてはいないが、それが何者であれ事前に説明して与えたイメージとの間で齟齬が生まれるのは確実だ。
それこそあの人間、あるいはそこから情報を得るあちらの人類にとっては、致命的と言えるほどの巨大な齟齬になりかねない。
『――いちおう、想定できる範囲でも、あの人間が後から正確な情報を得る糸口がないわけではない』
なんなら、その糸口の一つはほかならぬ自身が用意した情報源だ。
他にも情報の当てがないわけではないが、正直なところ他の情報源についてはあまり信用に置けないため自分が用意したモノに到達してくれるのが一番いい。
ただし、一つここで思い悩んでいる理由として、自身で用意したその情報源そのものに、あとから根本的な欠陥が見つかっていることが今この場での懊悩に拍車をかけている。
端的に言えば、人間という生き物がその情報にたどり着くのはそれなり以上に難易度が高いのだ。
自分たちのような生き物であるならいざ知らず。時間のない中で、人間に合わせた調整という恐らくは必要だったはずの一工程を、思いつきもせずに抜かして送り出してしまったがゆえに。
『――とはいえ、どれだけこちらが思い悩んだところで、すでに連絡の手段すら断たれている現状では取り返しようもない、か』
思考を切り替え、割り切って、ひとまず神ならぬその存在は、信じているわけでもない神にでも送り出したあの命の行方について祈っておくことにする。
幸運と健闘を、あるいはあの人間が自身に対して恨みの感情を抱かないことを。
恨まれたところで即座に脅威になることはないだろうが、それでも人の恨みを買っていいことなど何もないのだから。
ひとまず本章はここで終了です。
以降は2章――、に行く前に、島で過ごした期間の話をいくつか入れていこうかと思います。
準備ができ次第また更新していきますので、その際はまたお付き合いください。




