17:天高く超ゆる
広範囲の海面が大質量の直撃によって連続で爆ぜて水柱を上げる。
彼方に見える海竜の首、海上にもたげたそれが掻き消えると同時に海上のどこかへとむけて猛烈な勢いで射出され、その先にいたトーリヤの分身を巨大な顎でかみ砕いて、瞬時に元居た位置へと引き戻されていく。
それは首を伸ばして飛び掛かり、獲物を食い殺しては態勢を戻してまた次の得物を狙うという、実にシンプルなヒット・アンド・アウェイ。
ただしそんな単純極まりない戦術も、海竜の超巨体とそれに伴う超射程、そして明らかに物理法則を無視したような射出速度によって成し遂げられているとあってはその脅威度は高いなどというものではない。
(――マジかよ、クソッ、この局面で行動パターンを変えてくるだと……!!)
意識の向こうの分身たちが、これまで狙われてこなかった小型の海鳥にいたるまで次々と狩られていくその状況に、トーリヤは分身・本体共々その心中で思わず悪態を叫ぶ。
心臓を切り裂かれてもなお生存して攻撃を仕掛けてきたことは驚くべきことだが予期していなかったわけではない。
生き物が生命の危機に陥って、こちらの予想を超えるような反撃をしてきたというのも一応納得はできる事態だ。
けれど一方で、これまでほとんど機械的にしか動いてこなかったこの相手が、ここまで合理性を極めたようなごり押しの戦術をとってくるというのは、いくら何でも予想外であり不自然だ。
油断していた、舐めていたと言われればその通りということになるのだろうが。
ここまでの動きから考えると、今この海竜がとっている戦法は合理的であるがゆえにらしくないと、そう思わずにはいられない。
(――いや、今はそれよりも、どうする……!?)
この事態を予想できなかった後悔を一度わきに押しやり、トーリヤは急いで次の行動を分身たちの頭脳もつぎ込んで思案する。
先ほどまでと違い、今の海竜はこれまで狙ってこなかった小型の分身までも、それこそ手当り次第に近隣にいる生き物を攻撃している状態だ。
それゆえに、今もトーリヤ達や上空の二人はまだ攻撃を受けずに済んでいるわけだが、逆に言えばそれは分身と違って代えの効かない人間四人とて、いつ海竜の攻撃を受けて命を落とすかわからない状態ということになる。
一応トーリヤ自身、各所に散った分身たちに囮となる分身を量産させ、四方に散らしてその狙いを散らす努力をしている訳だが、そもそもあれだけの大質量をもつ海竜の攻撃、直撃しなくとも付近に着弾するだけで十分に命を落とせる威力だ。
まるで確率は低いものの、引き金を引き続ければいつかは死にたどり着くロシアンルーレットを、しかもすさまじい速さで試行回数を稼がれているような、そんな気分。
こうなれば急いでレイフト達やシルファを逃がさなければならない。
まだ分身の数が残っているうちに撤退を決めなければ、トーリヤはもちろん子供らの命まで失われてしまう。
そんな風に、トーリヤが内心焦燥に駆られていた、まさにその時――。
『焦るなよ、トーちゃん』
脳裏の向こう、数多の分身の耳の一つに、ひどく冷静な少年の声がそう囁いた。
上空の龍の中から爆ぜて荒れる海洋を眺望する。
自身の身にも危機が迫っていることを自覚しながら、否、自覚しているからこそ冷静に。
肩の上のモモンガ、トーリヤの本体と意識のつながっているそれに手をやりながら、恐らく取り乱しているのだろうこの父親に、務めて冷静に語りかける。
「――ここからだとよく見える。多少の誤差はあるが、あいつは自分を引き戻すあの場所から見て、一番近くにいる獲物を優先して襲ってるんだ」
遠方の一点に発射位置を設定したうえで繰り返されるヒットアンドアウェイは確かに強力だが、こうして上から見ていると標的の優先順位は一目瞭然だ。
そしてこの相手が特定の一地点を起点に、そこから近い順に狙っているというならこの状況でもまだやりようはある。
「トーちゃん、合図と同時にこの辺りにいる全部の分身を消去しろ。シルファと二人で、位置は俺たちの後ろに――」
そう分身越しに告げながら、続けて声をかけるのは、ある意味でレイフトがこの場において最も信頼する相手。
「――エルセ、いけるな?」
その瞬間。
『――行けるかッ!!』
――と、ほとんど反射的に叫びかけて、けれど言われたエルセはその言葉をすんでのところで飲み下していた。
続けて「無茶を言うな」や「いつもいつも」といった言葉が出かけるが、そちらについても意地とプライドにかけて、額に青筋を浮かべるだけで己のうちに封殺。
そこまでやって、ようやく働き始めた頭でエルセはレイフトに言われたことを精査する。
求められていることは分かる。
冷静になってみてもだいぶ無茶だが、その必要があることも理解はできる。
故に、次にエルセの頭の中で巡るのは、『簡単に言うな』とか、『過信しすぎだ』、『期待が重い』、『当たり前みたいに無茶を』、『できなかったらどうするつもりだ』、『当然のように巻き込むな』『その信頼の根拠は何だ』、『命懸けなのわかってんのか』、『いつか死ぬぞ』……、などといった、なぜかトーリヤの声で脳内再生される不満の数々と、それとは別に求められた役割をより確実に果たすための現実的な算段だ。
「――ええ、いいわ。やる……、やるわよ」
「そう来なくちゃ」
思考の中で、毎回こうやって応じてしまうから次にまた無茶を言われるのだろうな、と。
そんな事を考えながらエルセは口調だけは冷静なまま言葉を続ける。
「タイミングは、私が指示する。あと、さすがに一人じゃきついからシルファにも手伝ってって伝えて。レイは――、わかってるならそれでいいッ」
急ぎ指示を飛ばしながら、エルセは服の左肩部分に縫い付けた革ベルトを念動で操り、その先端に取り付けたフックを右腕の袖にある金具に引っ掛け体の前で吊り下げる。
かつて負傷し、動かなくなっていた右腕は、四年の歳月の中で手術の手段を確立したトーリヤによって半年ほど前に治療済みだ。
とはいえ、右腕が動かなかった頃の影響は抜けきらず、エルセはいまだ普通の方法では右腕を動かしきれずリハビリを続けているさなかにある。
元通りに動かせないのではない。動かない腕を使うために、手術までの間に念動によって右腕を操るすべを確立してしまった結果、右腕を使う際にそちらを頼る癖が抜けきらずにいるのだ。
そうした事情もあいまって、エルセは両腕を使う必要がなく念動系の魔法に集中したい時には、怪我していた時同様に右腕を体の前で吊り下げ、あえてその動きを制限することで腕の動きに咲いている意識を念動に集中させる癖をつけている。
「カウント――、スリー!!」
すでにやる気になって準備を整えるエルセの姿に、視界の端でトーリヤの分身たるモモンガが慌てるような動きを見せてくるが、ここまでこちらが動き出してしまえばこの父親も下手に抵抗する方が危険だとそう判断するだろう。
妙に過保護で、エルセ達を危険にさらすことを嫌がる傾向のあるトーリヤだが、すでに状況が動いているこの状況では勝負に出るしかないのは確かなのだから。
「ツー……!!」
この戦いにおける四人の役割について、レイフトが攻撃、シルファが移動と接近、そしてトーリヤが誘導と囮であるとするならば、エルセが担う役割は攻撃役を務めるレイフトを【水龍】内部に乗せるためのスペースの確保と、そして不測の事態における彼の守護だ。
シン域に至ったことで、エルセに発現した固有魔法は【隔意聖域】。
自身の周囲の空間を区切り、外部からの干渉を跳ねのけるこの能力を用いて、エルセは自身とレイフトを球体型の防壁の中へと納めて【水龍】内部へと乗り込んでいた。
「ワン――!!」
そして行動パターンが変わってもなお、海竜の動きは別のルールで動いているだけで単純だ。
無論、こちらから相手に近づくとなれば困難を極めるが、逆に向こうから襲ってくるタイミングについては、その単純な規則性ゆえに容易に予想することができてしまう。
否、予想するだけではない、狙われる獲物の大半がトーリヤの分身である以上、それは消失させることができるわけで、それはすなわち――。
「――ゼロ……!!」
次の瞬間、トーリヤ達二人と、そして空中にいるエルセ達以外の分身が消失したことで一気に襲われる順番が前倒しになり、水龍内部で空中に留まる二人のもとへと海竜の巨大な顎が襲い掛かる。
「――ぐ、ゥ、づ、ァアアアあああアアッ――!!」
周囲の景色がいきなり暗くなり、同時に自分たちを包んでいたはずの水龍が上下からかかる圧力に負けてはじけ飛んで、大質量が前方からぶつかってきたことによってエルセ達の体がその周囲の区切られた空間ごと大きく後ろに押し流される。
「―-ヅ、ゥ、ま、け、ないぃぃぃぃぃぃいいいいッッッ――!!」
そうして空中をすさまじい速度で移動して、けれどそんな移動も長く感じるだけのわずかな時間でやがては終わる。
エルセ達をめがけ、遠方からその巨大な顎で食らいついてきたその海竜が、けれどそれ以上進むことも退くこともしなくなって動きを止めたことによって。
(―-ふぅ……、ッ……、ギリ、ギリ……!!)
実際、危ないところではあった。
もしも事前にシルファに協力を仰ぎ、彼女が水龍の形状を変え、その水量を防壁として使って海竜の顎の力に抵抗してくれていなければ、エルセは今以上の衝撃をまともに受け止めることになって恐らくは力負けしていた。
そして何より、食らいつかれるその瞬間、大きく開いた海竜の口にトーリヤが光刃を走らせ、その顎の筋肉の大半を両断していてくれなければ、いかに優れた防御手段とは言え絶対のものではないエルセの【隔意聖域】では、かけられる上下からの圧力に耐えきれずにそのまま噛み砕かれていた。
あるいは今まさに目のまえで行われているように。
右手の光刃で顎の筋肉を切断したレイフトが、即座に左の、二本目の木剣を突き出して、その先から伸ばした【来光斬】の光刃で海竜の頭部を貫いていなければ――。
(けれど、これで――)
心臓のみならず脳まで貫かれ、さすがに絶命しただろうと思われたまさにその時、そんなエルセの予想を裏切るように一度は止まった海竜の体が動き出す。
「――なっ」
「まだ動くのか……!!」
同時に、一度は緩んだあごの力が、まるで息を吹き返したようにエルセの防壁に圧力をかけてくる。
目のまえに広がる虚空、海竜の喉の奥からゴロゴロという苦悶の声とも壊れかけた呼吸音ともつかない音が鳴り響き、その口の中にいるエルセ達に対して、何とか処刑装置としての役割を果たすべく稼働する。
(まずい――、このままじゃ逃げ場が――)
「エルセ、この先だ」
そうして、危険に顔色を変えるエルセに対し、しかし陽光のような光を木剣の先にともしたレイフトが、その輝きで進むべき先を指し示す。
投げかけられた指示に、エルセが再度腹をくくるのにかけた時間は、ほんの一瞬。
「ああ、もうッ……、やってやるわよ……!!」
自身の周囲の空間を切り取って隔離する【隔意聖域】、今もまたエルセとレイフトの二人を球体型の守りの中に抱えているこの能力だが、しかし実のところその境界を区切っているのはいわゆるバリアのような物理的な防壁という訳ではない。
エルセ達を守っているモノ、それは外界から侵入しようとするものを押し返す、エルセ自身が発する【念動力場】だ。
物理的な壁ではなく、意志の力で生み出した運動エネルギーとでも評すべきそれ。
そしてそんな性質の守りであるからこそ、今のように牙を用いた噛みつきのような、圧力が一点に集中する攻撃に対しても、その一点ではなく周りの顎そのものを受け止める形で対応することができている。
そしてもう一つ、念力という『力』であるからこそただの壁ではできない対応もまた可能だ。
例えばそう、上下からかかる力を滑らすように自身の背後へと受け流し、それによって防壁に守られた球体型の空間ごと喉奥へとむけて滑り込むようなことも――。
上空で繰り広げられるその光景に唖然とする。
「マジかよ……」
空を横切る海竜の体、シロナガスクジラさえ咥え込む、どうかすると高層ビルと見紛うばかりの巨体を誇るその巨体が、しかし今体の表面で煌めく光によっておびただしい量の血をまき散らして崩れていく。
否、それは海竜の巨大な体の、その表面で起きている現象ではない。
むしろその逆、口からその体内に入り込んだレイフト達が、食道を滑落しながら縦横無尽に【来光斬】を宿した木剣を振り回して、その体内から海竜の巨体をめちゃくちゃに斬り刻んでいるのだ。
「――【水龍】」
「って、ぅぉあッ!?」
そしてそれを眺めるだけのトーリヤと違い、抱きかかえられる形で浮かぶシルファはただ見ているだけでは終わらない。
いつの間にか、海竜に噛み砕かれて四散する形となった【水龍】の代わりとしてその二回りほど小さな【水龍】を海面から新たに生み出して、今まさに体を斬り刻まれる海竜の頭部へと巻き付けるように配置する。
「――ダメ押し、――分解、――水、――水素、――酸素」
四年間の研究の中で判明したことだが、この世界の魔法には人によって特定の事物を操作の対象にしやすかったり、あるいは魔力によって生み出しやすかったりといった、ある種の『親和性』のような概念があるらしい。
そのわかりやすい例として、シルファの場合特に水と空気に干渉する能力が突出して高かったわけだが、彼女の場合特殊だったのはそれらに含まれる【酸素】に対しても、個別に干渉し、操作できるだけの格別の親和性を発揮したことだった。
そう、酸素である。
生物の生存に必要不可欠な気体にして、物質の燃焼を助ける助燃性のガスでもあるこの気体を、シルファという少女は他の液体や気体とは個別に操り、時に分離・分解させて活用できるというとんでもない技術を体得していた。
今もまた、シルファは海竜の周囲で渦巻く水龍を、構成する水(H2O)を可燃ガスである水素(H)と助燃ガスである酸素(O)に分解し、それらを合わせた酸水素ガスと呼ばれる混合気体へ変化させている。
すでに体内からめちゃくちゃに斬り刻まれ、脳や心臓すら破壊されている、生きているのが不思議なほどの海竜に、その状態から逃れる道など残っているはずもなかった。
「……発火」
その瞬間、体中から切れ込みを入れられた海竜の体がその周囲で起きた爆発によって今度こそバラバラにはじけ飛ぶ。
同時に、体内から海流を斬り刻んでいたレイフト達が、大きく裂けたその隙間を飛び出して爆風で荒れ狂う海面へと、まるでびーちぼるでも落としたかのように念動力場ごと着水する。
イルカの分身にしがみ付き、落下してくる肉片が当たらないよう注意を払いながら、三人の子供らが成し遂げた事態に対してトーリヤが口にするのは感嘆の一言。
「強くなりすぎだろ……」
「――終ふぁっ、た……? あふ……」
と、そうして愕然とするトーリヤのすぐそばで、極度の集中によって言葉や表情さえ消していたシルファが、いつの間にかいつもの調子に戻って眠そうに欠伸を漏らす。
そんな様子の、つい先ほど極大の魔法を操って大爆発さえ起こした少女に対して、トーリヤが向けるのは仕方ないという嘆息。
「一応、まだ死亡確認とかはしなくちゃいけないんだが――、まあ、さすがにあれで生きて襲ってくるってことはないだろう。
確認は分身使ってこっちでやるから、疲れてるだろうし寝てていいぜ」
「んむぅ……。それじゃ、おやすみぃ……」
さすがに疲れたとばかりに夏の海に浮いたまま船をこぎ、やがてはその波の揺れをゆりかご代わりに眠りに落ちたシルファの姿に、トーリヤは心中密かに「まったく」と嘆息してもう一度視線を上げる。
もはやそこには、先ほどまでトーリヤ達の命を脅かしていた怪物の姿はどこにもない。
トーリヤが卒業試験と位置付けた、四年間トーリヤ達を島に閉じ込めていた、あの死の象徴のようだった巨大な海竜は、結局最後の瞬間まで悲鳴の一つも上げぬまま、バラバラの焼け焦げた残骸となって、海へと落下し沈んでいった。




