1:事故で死んだので勇者に転生します
派手に視界が動転して、最後にアスファルトの地面と自分の手、そして広がる血だまりが視界に映って、そして次の瞬間、××の視界は一面真っ白になっていた。
――これ、は……。
思わず驚きの声を漏らしたはずなのに何も聞こえない。
それどころか、呼吸をして空気を肺に取り込む感覚はもちろん、手足が存在している感覚すらない。
当然のように味覚にも嗅覚にも何の感覚もなく、こうなってくると視覚としてとらえている真っ白なその景色も本当に見えている景色なのかわからない。
ただ何もない、まるで白紙を立体化したかのような空間の中で、自我だけが存在しているようなそんな状態に、××がうすら寒いものを感じ始めていた、まさにその時――。
――ああ、ごめんごめん。そうだよね、人間相手に話すなら五感情報があった方がいいか。
唐突に声が、否、耳で聴きとった感覚のない、何らかの思念のようなものを意識が捉えて、次の瞬間、真っ白だった視界は唐突にホテルのような内装の一室へと変化していた。
「――!?」
同時に、先ほどまで感じられなかった五感が一斉に戻ってきて、とっさに両手を確認した××は、しかし見えるその手に違和感を覚える。
(――あ、れ……? 俺の両手はこんな形だったか?)
「ああ、すまない、本来なら君の体もきちんと再現したいところだったのだけど、何分緊急だったためにデータを用意する余裕がなくてね。
顔かたちはある程度本来のものに設定できたと思うが、体については同年代同性の人間のものを適当に流用したから、自分の体だと思ってると違和感があるかもしれない」
そう言いながら、声の主である初老の男性が私がいつの間にか座っていたソファーの、その対面へと腰を下ろす。
「ああ、これも適当に設定した外見だよ。好みの外見などあればこんな風に――」
そう言って、次の瞬間初老の男性がみるみる若返ってスーツ姿の男性、さらに若い金髪の男、制服の男子高生、小学生くらいの少年と姿を次々と変えて、さらにはその少年が少女に代わり、さらにその少女が来ていた衣服にプリントされていた猫に、そこから巨大化して熊に、驚く間もなく美しい女性の姿に変化したかと思えば、そのうえでさらに頭に角を、背中に翼を追加して見せる。
「――とまあこの通り、お望みとあらばいくらでも外見は変えられますわ。
とはいっても、あんまり好みの外見で話をしない方がいいのでしょうか。外見で与える印象でこれからの君の判断を左右してしまうのはフェアではありませんもの」
「判断……、いや、待って、ください。あなたはいったい何者です……? その見た目だと悪魔……? それとも、この状況――。ひょっとして神様の類ですか?」
「うーん……。ひとまずこんな外見にはしたけど悪魔ではないかな。神様――、まあ、君たちが考える神に近い存在ではあるかもしれないけど、それだって宗教的な意味での神ではないよ」
話しながら、悪魔じみた装飾を消し女はその姿を少年のものへと変えながら、言葉を選びつつ語り続ける。
「正確なところを話すと長いんだけど、実のところ今はあまり時間がないのです。あなたは、自分が今どういう状況にいるか把握していますか……?」
「どういう……。ああ、確かついさっき、会社帰りに車にはねられて――。だとしたら、ここは、まさかとは思いますが死後の世界なんですか……?」
血の気が引いて青くなる感覚を味わいながらの問いかけに、いつの間にか若い看護師のような外見となっていた相手が答えを返す。
冷静な口調で、どこか余命を告知する医療関係者のように。
「――いいえ、生憎と死後の世界ではありません。そしてそのことが、今時間がない理由でもあります。
端的に言えば、今のあなたは死の淵、今まさに命を落とす、その一秒前の状態にあります」
「いちッ――!?」
「ああ、ただしそれは現実の時間での話です。今は私の力で時間間隔を引き延ばしているので、まだしもこうして話せるだけの猶予はあります。
ですが、それだって無限に引き延ばせるわけではありません。なので――。
――ええ、そうですね。細かい事情や前提知識については話す時間がないのでたとえ話でお聞きしましょう。
あなたは異世界に転生する気はありますか?」
「異世界に、転生……?」
神様みたいな相手が医者のような外見に変化しながら告げたその言葉に、××はいつの間にか乗り出していた体をソファに戻し、脱力するような感覚と共に身を沈める。
「――それって、最近よく聞くあれ、ですか?」
「ええ、まあ。厳密にはいろいろと違う部分はあるのですが、先ほども言った通り時間がないので、それに近い状況、と考えて話を聞いてください。
あなたには――、そう、とある世界に転生してその世界に襲来する厄災――、それこそ魔王のような存在を討伐してもらいたいのです」
話しながら、本人のイメージも何らかの作用を及ぼしたのだろう。
医者の服装が白衣から一気にコスプレじみたファンタジーなものへと変わって、剣を背負ったいかにも勇者といった外見へと変化する。
「……私に、この年で異世界転生して勇者になれ、と?」
「ええ、そうです……。
実をいうと転生していただきたい問題の世界というのは、これから向こうの世界の時間で十年前後で魔王とでも呼ぶべき、敵対的な来訪者が現れると予想されている世界なんです。
それでその世界の――、……まあ、私と同じ神様のような存在が、他のいくつかの神様に援軍を要請している、というのが現在の状況でな……」
どこか言葉を選ぶような、歯切れの悪い口調でそう語りながら、勇者のようだった相手は徐々に同じファンタジー世界の王様のような外見へと変化していく。
「――それは、つまりその勇者ポジションの人間がほかにもいる、ということですか?」
「――うむ、まあ、そうじゃ……。
だからというわけではないのだが、実をいうと当初はこの援軍要請を断ろうとしておったのだ。理由は――、まあ、個人的な主義信条の問題なのだが……。とはいえ、放置しておいてもろくなことにならんのは目に見えていたし、何らかの代替手段を模索すべきかと悩んでいたところでな……。
そんなときに、目の前に現れたのが君じゃ」
「俺が……?」
思わず敬語を忘れて素の反応を漏らしながら、しかしもはやこの相手にそうした表面的な礼儀が意味をなさないことを理解し改めることなくあきらめる。
そもそも先ほどからこの相手はころころと姿を変えていて、そのたびに口調すらもその外見相応のものに代わっているのだ。
礼儀というものが本来人間同士のコミュニケーション技術であることを考えれば、人間以上の存在に対して用いたところでまどろっこしいだけのものでしかないのだ。
第一、今まさに死に瀕しているらしい自分の状況で、あまり細かいことを気にして話が進まなくなっては元も子もない。
特にこの相手の場合、こちらに対する姿勢を見れば、恐らく軽んじているわけではないのだろうが、それとは別の理由でなおさらに。
「もう気付いているかもしれないけど、正直に言えば今君に持ち掛けているこの話も結構突発的な思い付きなんだ。
参加するか迷って返事の締切間近っていうところで、突発的に君という命が渡りに船のような形で現れた」
ファンタジーな王様から、スーツを着た同年代と思しき男へと姿を変えながら、この神ならざる存在は自身の置かれた実情をそう告白する。
「思いついた理由も、君が交通事故に遭うのを見たからだしね……。そういう意味では、君をはねたのが普通の乗用車じゃなくてトラックだったらマクガフィンとしては完ぺきだったんだけど……。ああ、いや、これは君にとっては不謹慎な冗談だったか」
「――ええ、まあ」
「――とはいえそんな事情だから、正直こちらとしても準備不足な感は否めないし、決断の迫り方が時間制限で焦らせて判断力を鈍らせる悪徳商法……、なんだっけ、ダークパターン? それじみた迫り方になってしまっていることも自覚している。
それでも、それを自覚したうえで君には今決めてほしい。
すなわち、このまま死ぬか、それとも君という存在だけは永らえて過酷な戦いが待つ人生に旅立つか」
「……ッ、……嘘だろ……、マジか……」
胸の内で騒ぐ反発染みた感情をどうにか理性で押し込め飲み下す。
これが夢なら笑い話にもなるのだが、夢や冗談でないのはすでに実感として覚えているところだ。
そして夢でないというならば、残念ながら今ここで、早急に決めねばならない。
「…………送り出す、その転生というのは具体的にどうするものなんです?」
自身の死、そしてそれを回避できる重大な決断を突きつけられて、いくつかの感情と言いたいことを飲み込みながら目のまえの相手に問いかける。
正直言いたいことはいろいろあるが、相手の言を信じて考えるなら、今自分は不慮の事故によって本来あえなく死亡するところを、この目のまえの神のごとき存在によって引き止められ、まだしもマシな選択肢を提示されている状況なのだ。
無論良くある異世界転生の話のように、自身の死の責任がこの神様にあるというなら話も変わってくるが、そうでないなら選択肢を提示されている分、道義的には感謝すべき状況ということになる。
「具体的には、そうだね……。君の今まさに機能停止しようとしている脳髄から君という人間、それを構成する人格や記憶を抜き出して、ある種の圧縮データにして向こうの世界に送信。
向こうの神様に当たる存在が適当な人間の、まだ人格なんかが芽生える前の胎児の肉体にそのデータをインストールして、あとは徐々に圧縮されたデータが解凍されて君としての人間性が再構成される、みたいな流れになる」
「……それは、もともと生まれてくるはずだった子供の体を奪う、みたいな話にはならないんですか?」
「それは思想や解釈によるところもあるけど、そもそも中身が生まれる前の空っぽの器にインストールするわけだから、あまり気にしなくていいんじゃないかと思っているよ。
すでにある人格を上書きするというよりは、その体に発生する人格を君にする、といったほうが方式としては近いかもしれない」
「――そう、ですか」
それだけを確認して、ほんの一瞬目を閉じて腹をくくると、すでに決まっていたといってもいいその決断を口にする。
「だったらその話、受けます」
「……いいのかい? 勧めておいてなんだけど、君がこれから飛び込むのは間違いなく苦難の人生だ。
もちろん、向こうでの君の生き方をどうこうできるわけじゃないから戦いを避ける選択もあるにはあるけど、僕の予想じゃあの世界を襲う厄災は世界全土を巻き込むものになる。一度向こうに行ってしまえば、襲来する厄災と無関係でいることも難しい。
もしかしたら今ここで死んでいた方が楽だったと、後々後悔することになるかもしれないよ?」
「――ええ。それでも受けます。
本来ならば死んでるはずの命というなら、その代償が高くつくのはある意味道理だ。
魔王の討伐、その仕事を請け負う代わりに、俺は新しい命と人生をもらう。
そういう理解でいいのなら、俺はその契約に異論はありません」
本音を言えば、今まで暮らしていた世界に未練がないわけではない。
いい年まで生きながら結婚などはしていなかったため妻子を残す心配はいらないが、故郷の両親などはいまだ健在で、いわば自分はこれから先立つ親不孝をやらかす立場なのだ。
それでなくとも、異世界に転生するとなればこれまでとは全く違う生活に放り込まれることは想像に難くない。
文明社会への未練に新しい生活への不安、それらの心情を考えれば本音としては気の進まない部分はあるが、それでもこのままでは恐らく本当に死ぬことになるのだ。
元の世界に戻る道は、突発的な事故によって完全に失われた。
己が不幸を嘆きたいのはやまやまだがそんな時間はなく、その事実そのものが揺るがないというなら、今は限られた時間の中で決断を下すべきだ。
すなわち、このまま順当に命まで失うか、あるいは取引に応じてすべてを失いながらも命だけは残すか。
そしてこれは個人的な主義でしかないが、少なくとも××は生き延びる道があるならその道を選ぶべきだと、そう思う。
「――そう。それじゃ、決まりだね」
そういった瞬間、相手がおもむろにその手を私に向けて、それによって××は自身の中で何らかの変質が始まったことを五感のどれとも違う感覚で知覚する。
「時間もない。これから君の人格情報を抽出、情報圧縮する形で眠らせて、向こうにいる神様的な奴のもとへと送信する。次に目覚めたとき、君は新しい体で新しい人生をスタートしているはずだ」
「……そう、か。まあ、世話を、かけます……」
徐々に薄れていく意識、眠気とも違う逆らい難いその感覚に身をゆだねながら、最後の意思を振り絞るようにして神様に対してそう礼を述べる。
否、この相手は神に近いというだけで、本人曰く神そのものではないのだったか。
「気にしなくていいよ。――ああ、さすがに何の力もないまま向こうに送り出すわけにもいかないし、何か使えそうな力をインストールしておかないと……。
――うん、この力なら僕もよく使ってるし、人間のスケールでも十分に使えて戦力にもなるだろう……。ああ、でもこれ単体だとよっぽどの知識がないと――。ならこっちの情報ファイルを加工して――。ついでにこっちの力も追加しておけばひとまず問題なく運用できるかな」
ソファから浮き上がり、徐々に小さなオブジェクトに変質していく己の前で神を名乗る存在がそんなつぶやきと共に作業を続け、ふと思い出したように薄れゆく意識の中にいる××の方へと顔を上げる。
「――ああそうだ、最後に一つ。君と同じ、魔王に対する他の勇者の連中についてだけど――」
意識が途絶えるその寸前、決して無視できないその一言が、本当にぎりぎりで滑り込むように届いて――。
「――絶対に分かり合えないから、くれぐれも気を付けて」




