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Coimetrophobia

 



 キッチンの床で過ごすようになって、たぶん3日ほど経った。男は、その間、毎日欠かさず仕事に行った。毎朝、起きると、腕時計を見せられて、帰る時間を宣言される。

 すずめは、毎日、キッチンの床から、トイレ以外は、一歩たりとも動かなかった。そうすれば、男は、微笑んだまま優しいからだ。毎日、水と食事を与えられて、足の手当てをし、風呂にも入れてくれる。食事は、リゾットのようなものを与えられたが、スプーンはなかったので、犬のように食べる羽目になったが、それでもないよりは、ずっといい。

 時折、すずめが、間違った答えを言うと、殴られたり、蹴られたりすることもあったけれど、それには慣れていたので、それほど苦痛ではなかった。

 今日は、朝から、男がずっと家にいる。スーツではなく、秋物のセーターとジーンズという簡素な姿なのに、モデルのように見えた。朝食を食べた後は、キッチンから続く、リビングのソファで、外国の本を読んでいる。

 男のスマホに電話がかかってきた。そういえば、すずめのスマホはどこへ行ってしまったのだろうか。清水の舞台から飛び降りる気持ちで、購入したスマホは、男が持っているのか、それとも、捨てられてしまったのか。




「ああ、分かったよ、今から行く」




 電話を切った男が、ぼんやりと座り込んでいたすずめに近づいた。




「どうしたんですか、そんなにぼんやりして」




 男が、すずめの顎を掴んだので、慌ててすずめは視線を合わせた。




「今日は、私の誕生日でして」

「お、おめでとう、ございます」

「ああ。ありがとうございます。それで、大学の旧友たちが、誕生日会を開いてくれるそうです。東京まで赴くのも面倒ですが、付き合いですから」




 すずめは、媚びるように、なんとか口角を上げたが、男はそれを見ていなかった。




「少し、遅くなりますので、今日は、地下にいてくれますか」

「……ぇ」




 あの地下に、また戻される。すずめは、怖くなって眉尻を下げた。

 死体があった場所に、好き好んで行きたいはずがない。すずめは、いい子にするから、ここにいたいと小さく懇願した。




「嫌ですか?でも、今日だけですから」




 すずめの頭を撫でて、男は、優しく説得した。これ以上、すずめがごねれば、男は、無表情になって、すずめを罰するかもしれない。涙がこぼれそうになりながら、すずめは小さく頷いた。

 抱き上げられて、地下におろされた。真っ暗な、地下室には、今日も音のない映画が流れている。ベッドだけがある空間で、すずめは、足に鎖を付けられた。




「いい子にしていてくださいね」




 すずめは、小さく頷いて、以前よくいた側の壁に張り付くようにして座り込んだ。何の音もしない、映像をじっと見つめていると、地下の扉は閉められて、何か重いものが置かれる音がした。

 今日は、男の誕生日だと言っていた。すずめの誕生日は、春だったけれど、今年も誰にも祝われることもなく終わった。男には、大学の旧友がいて、誕生日パーティーを開くほどの仲らしい。

 殺人鬼のくせに、普通の社会生活を、男は送っているようだった。会社に行き、仕事をして、友人と会う、その傍らで、人を殺している。その解離した状態に、男はどうやって、対応しているのだろうか。

 友人もいない、家族もない、大学での生活も、ほとんど授業とバイトで埋められていたすずめよりも、ずっと社会に適合している。誰にも一度も祝われたことのない誕生日が、すずめの人生の象徴のように思えた。

 大学に入って、一度だけ、自分で自分にケーキを買おうと思ったけれど、ケーキ屋さんの甘い匂いを前にして、すずめは店に入ることもできなかった。幸せの香りを目の前にして、すずめは、自分がそれにふさわしくないと思った。

 誰にも望まれずに生まれて、誰にも愛されずに育って、誰からも相手にされずに生きてきた自分が、幸せな場所に足を踏み込むことを許されていない気がした。誰も、そんな奴の誕生日なんて、祝いたくない。ケーキでさえ、そんな奴に食べられたくない。


 まして、自分は、父を————————


 すずめは、膝に顔をうずめて、足に巻かれた包帯を指でなぞった。毎日、包帯を男が巻きなおしてくれる。器用に巻きなおされるたびに、痛みを感じるけれど、それが、次第にましになってきていることに気づいた。この足では、再び、走ることはできないかもしれないが、歩くことはできるようになるかもしれない。そうしたら、逃げ出すのも、そう難しくなくなるかもしれない。

 がくっと首が落ちる感覚で一瞬目が覚めて、また、眠る。何回もそれを繰り返して、すずめはうとうとと浅い眠りの中にいた。どれほどの時間が経ったかは分からなかったが、突然、天井が明るくなった。寝ぼけたまま、上を見上げると、黒い影が見えた。




「ひっ!」




 重いサンドバッグが、高い位置から落とされたような、音がして、すずめは小さく悲鳴を上げる。

 それが、人のカタチをしていたからだ。

 階段を、男が駆け下りてきた。




「大丈夫ですか?けがは?」




 落ちている人を、長い足でまたぎ、すずめの前に膝をつく。朝見たセーターとジーンズのまま、男は外の香りを纏っていた。お酒と、たばこと、あとわずかに香水の香りがした。




「ぶつかっていませんか?」




 すずめの頬に触れて、体に触れていく。本気で心配しているかのように、男は、すずめを観察した。




「だいじょうぶ、です」




 すずめの返事を聞いて、男は安心したのか、すずめを抱きしめた。その温かさと強さに、すずめは瞠目した。




「良かった。突然、暴れるから、落としてしまって」




 転がっている人間のことを指すのだと、すずめには分かった。すずめは、黒い塊に一瞬、顔を向けて、すぐに逸らした。顔を見てしまうと、夢に見てしまう。前の二人を頻繁に夢で見たように。




「少し、待っていてください」




 男は、すずめから離れて、転がっている人をベッドに引きずっていった。暴れないところを見ると、落ちて気絶したのかもしれない。手錠を止める音がして、しばらくすると、すずめのもとに戻ってきた。すずめの足と柱を繋ぐ、鎖の南京錠を外した。




「地下に二人は狭いですから、上に行きましょう」




 すずめは、反射的に両手を男に伸ばす。男もさも当たり前かのように、すずめを抱き上げる。

 抱き上げられて移動することに、ここ数日でお互いに慣れた。すずめは最初に抱いていた男への不安を、今はさほど抱いていなかった。この男の強い腕も、以前はすずめの首をへし折るためにあると思っていたのに、今は抱き上げるためにあると思ってしまう。




「今日は、遅いですから、お風呂はやめておきましょう」




 そう言って、キッチンの床のタオルを整えられて、上に優しくおろされた。




「眠っていてください。私は、用を済ませてきます」




 男の言う用が、すずめにはなんなのか分かった。怖くて、踵を返した男のジーンズのすそを思わず掴んでしまう。


 まずい、なんてことを


 すずめは、自分がしでかしたことに、驚き、恐怖した。


 罰せられる


 すずめは震える手を離して、胸の前で握りしめた。男は、すずめの前に膝をついた。




「大丈夫ですよ。怖かったら、聞こえないとは思いますが、両手で耳を塞いでいなさい」




 殴られる、そう思ったのに頭を撫でられた。すずめは、何度も瞬きをして、そして男がいなくなるまで呼吸をするのを忘れた。ゆっくり体を横たえて、両手を耳にあてる。自分の心臓の音だけが、聞こえた。






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