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Emetophobia

 



 男に着せられたのは、簡素な下着とシャツ、ズボンだったが、すずめの体型にあったものだった。新品のそれを、なぜ、男が持っているかは分からなかった。抱き上げられて、今度は、キッチンの大理石に落とされる。男は、そのまま、部屋を出ていった。

 濡れた髪は、適当にタオルで拭かれて、ドライヤーで乾かされた。驚いたことに、男は、すずめをあまり乱暴に扱わない。すずめが、その乱暴さに慣れてしまったのかもしれないけれど、不思議と親切さを感じたのだ。

 生き残るためには、言葉を選ばなくてはと思っていたが、おとなしくしていれば男は、すずめにひどいことをしないのではないだろうか。




「水、あんまり飲んでないんですね?」

「ごめんなさい」

「いえ、逃げるためでしょう?」




 いいんですよ。


 そう続いた言葉に、すずめは必死に首を横に振る。

 いい子にする。それが、すずめにできる、生き残る方法だ。男の情緒が分からないから、どうにか、自分でその答えを探さなければならない。

 丁寧に話す男は、恐らく、かなり知的レベルが高い。高級なスーツに腕時計、それに、この家が、社会的地位を教えてくれる。微笑みか、無表情か、心の内を覗かせない、二つの表情は、男が生まれながらに高い地位にいることを示しているようだった。

 頭上から、肉を焼く音がした。

 肉の焼ける匂いがして、すずめは急速に、胃がひっくり返る感覚を覚えた。

 ここで、吐いたら、罰せられる。

 すずめは、懸命に口を押えた。胃を落ちつけようと、乾いた口の中から唾液を懸命に飲み込む。何度も、何度も飲み込んで、必死に、吐き気をなかったことにしようとした。

 肉を焼く音がすると、若い男の悲鳴が聞こえる。あの人がどうなったのか、正確なところは知らないけれど、たぶん、最初の人と同じだろう。それを、想像すると、また、胃が震えだした。




「出来上がりましたよ」




 男の手には皿が二つあった。アイランドキッチンに並ぶ椅子を目指して、すずめは、懸命に立ち上がろうとしたが、痛みが強すぎて、難しい。




「なにしているんですか?あなたは、ここですよ」




 地面に皿が置かれた。そこに乗った肉を見て、すずめは、悲鳴を上げそうだった。




「よし」




 犬に、言うように、すずめに言って、男は、椅子に座る。フォークもナイフも箸もないなか、ただ、焼かれた塊肉を前に、すずめは途方に暮れた。犬のように食べろと言われているのだろうけれど、食欲は、まるでわかない。

 男は、ワインを注ぎ、美しいその手にナイフとフォークを握って、切り分けていく。上流階級であることを、惜しげもなく見せつけられている気がした。




「食べないんですか?」




 男はこちらに一瞬、視線を向けた。すずめは、反射的に肉にかぶりつく。だが、口の中に肉の血の香りがした途端に、飲み込めなくなってしまった。飲み込んだら、戻れなくなる気がする。

 この肉は、何の肉なのだろう

 そう思った瞬間に、口の中からも胃の中からも、すべてが出てきた。飲み込もうともがいても、戻っていかない。残りの肉の上に、吐しゃ物が広がってしまう。




「……ぁ」




 男は、舌打ちをして、立ち上がった。




「ごめんなさい、ごめんなさい」




 服のすそで拭こうと、伸ばした瞬間に、男の手がそれを止めた。




「久しぶりの食事です。もっと、胃に優しいものを作ってあげればよかったですね」




 口をゆすぎなさいと、水を渡されて、ボウルに吐き出させられる。しばらく、それを続けて、残った肉も皿もひかれた。キッチンペーパーとアルコールで、大理石は拭かれていた。




「あなたは、もう寝ていいですよ」




 バスタオルを与えられて、大理石の床に横にさせられる。頭を数回ほんのわずかに乱暴に叩かれて、目を閉じた。ナイフと皿が当たる音がして、男が食事をしていることが目を閉じても分かった。しばらくして、洗い物をする音、手をすすぐ音、移動する音がした。

 電気が消されて、すずめはそこで、初めて息を吐き出した。






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