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Dishabiliophobia

 



 目の前のペットボトルに静かに手を伸ばした。手が震えて、うまく開けられなくて、こぼしてしまった。口に入れるより床にこぼした量の方が多いかもしれない。すずめは精いっぱい、濡れた床を自分のセーターで拭いた。キッチンの端で、体育座りをして、どれくらいの時間が経っただろうか。部屋に時計はなくて、どれほどの時間が過ぎたのか、すずめには分からない。足を撫でると、いつの間にか、包帯が変えられていた。ずきずきと痛んだ足は、わずかに軽くなっていた。足に、鎖はない。今、すずめをこの籠に押し込むものは何もない。




「帰れる」




 家に帰れる。すずめが思う家がどこかは、分からなかったけれど、これで、帰れるかもしれない。ずりずりと這いつくばって、すずめはキッチンを出ることを決めた。


 帰れる。帰らないと。


 すずめは、ゆっくりゆっくり、それでも精いっぱい急いで、這う。廊下に出て、すずめは、振り返る。今が、何時かは分からなかったけれど、まだ、昼を過ぎたころだろう。中庭の一本松が見たくて、ずりずりと這った。今は、出ていくのが最優先だというのに、すずめは何をしているのだろう。

 見上げた松は、最初に見た時と変わらない。汚れた自分の手が、ガラスを汚した。




「帰らなくちゃ」




 いったい、どこに

 帰れる場所なんて、どこにもないくせに。


 すずめは、また、玄関に向かった。玄関に近づいて、止まった。もしここで、外に出たとして、あの石の壁をどうやって超えようか。超えた先、あの山道を、この状態で這って行けるだろうか。運よく誰かに会えるなんて奇跡、そうそう起こらないだろう。逃げた先で、あの男に捕まったら、今よりひどい目に合う。それこそ、死んでいった男たちのように、最大限の苦しみを与えられて、死ぬかもしれない。

 玄関に近づいたまま、動けなくなる。

 ルールは簡単だと、男は言っていた。


 一つ、玄関には近づかないこと。二つ、いい子にすること


 どうしよう。どうしよう。

 そう思えば思うほど、動けなくなった。キッチンに戻ればいい。でも、外を諦めることもできなくて、じりじりと時間だけが過ぎていく。


 ああ、どうしよう、どうすればいいだろうか。体の力が抜けて、動けない。

 ああ、もうダメだ。どうすることもできない。


 頭は働かないし、時間だけが過ぎていく。追いつめられて、すずめは、泣き出した。

 その時、玄関の扉が開いた。

 外の空が一瞬見える。空は、すでに暗かった。自動的についていた廊下の電気が、すずめの体内時計を狂わせていたようだ。いや、ずっと地下で、時間も日付も分からなくなっていたのだから、とっくに、体内時計は狂っていたのだ。

 どうしよう。なんと言い訳を、すれば。




「本当に、あなたという人は。簡単なルールも守れませんか?」

「ぁ、ぁあ、ちが」




 言葉は、口の内側に張り付いて、出ていかない。男は靴を脱ぎ、ネクタイを緩める動作をしてから、すずめを持っていたカバンで横殴りにした。廊下の壁に体を叩きつけられて、すずめは、懸命に謝罪を始める。




「本当に、愚かです。この足でも、あれだけの時間があれば、逃げられたかもしれないのに」

「ごめんなさい、ち、違うんです」

「違う?何が、違うというんですか?」

「もう、もう、帰ってこないんじゃないかって」




 髪を後ろに引っ張られて、強制的に上を向かされた。喉を逸らして、さらすことが怖かった。




「ふ、不安になって」

「なるほど。媚びることを覚えましたか」

「ちがっ」

「ほら、行きますよ」




 どこに、連れていかれるのだろうか。また、地下だろうか。すずめは、髪を掴んだ、男の手に手を重ねた。爪を立てずに、慎重に、言葉を選ぶ。足を痛がった時、男は、確かにすずめの言葉に耳を傾けた。罰を受けないために、生き残るために、すずめは、言葉を選ぶ必要があった。愚かな行動を、言葉で上書きして、そして、信頼を得れば、チャンスが来るかもしれない。

 この殺人鬼から逃れる方法があるかもしれない。




「ま、まって、お願い」




 ぴたりと、男が止まった。手を離して、面倒くさそうに、すずめを見た。




「あ、歩けないです」

「ええ、だから、手伝っているでしょ?」

「だ、……抱っこしてください」




 ずっと微笑みが張り付いていた男の顔から、それが、消えた。どちらが良いのだろうか。機械仕掛けの微笑みと、それを落っことしてしまったかのような無表情と、どちらが男の心の内をちゃんと反映しているのだろうか。

 深い深いため息をついた男は、すずめの横に、膝をついて、わきの下に手を入れて、そのまま力任せに抱き上げた。男の強い力に、すずめは、悲鳴を上げそうになった。スーツ越しでも分かる男の筋肉質な体は、すずめに不安と緊張しか与えない。この人は簡単に、すずめを殺せる。おそらく、今まで殺された人間たちのように道具も必要とせずに、この手だけで、すずめは殺されてしまうだろう。

 リビングではない方向に、男が進んでいく。この先は、地下室への入り口だ。すずめは、ギュッと目を閉じた。

 突然、男の手が離されて、重力を感じて、心臓がひゅっとする。まるで、ジェットコースターの頂上から突然、落とされたような感じだった。それから、体が地面に叩きつけられる。男の身長からすると1メートルほどのところから落とされたようだった。打ち付けた後頭部も、背中も、おしりも強く痛み、唇をかみしめる羽目になった。

 男は、舌打ちをした。

 反射的に、すずめは目を開けて、体を守るように、ギュッと縮める。




「汚れました」




 Yシャツを忌々しそうに見る男は、薄手のコートと、ジャケットを脱いで投げ捨てる。ホテルと見紛うほどきれいで広い浴室に、最初は驚いたが、今は恐怖しか感じない。Yシャツの袖をめくりあげて、シャワーを男が持つ。

 熱湯をかけられる。

 反射的に思ったすずめは、顔を庇うように両手を上げた。その手を掴まれて、顔に直接、シャワーの水を当てられる。冷たすぎも、熱すぎもしない適温のお湯だった。




「っご、ぐふっ」




 鼻から水が入ってきて、すずめはむせて顔をそむけた。




「……早く脱いでください。さっさと汚れを落として」

「え」




 すずめは、自分の体を守るように、自分を抱きしめる。すずめは、自分が女性という弱者であることに、長期間さらされて生きてきた。気持ち悪くて、怖くて、どこか落ち着かない感覚に、また、さらされて、すずめは身動きが取れなくなった。




「はぁ。あなたのような貧相な体に、私が、欲情するとでも?早くしてください」




 そうか


 すずめは、一瞬にして、納得した。こんな風に、容姿にも体格にも恵まれている男が、すずめのように汚れたドブネズミに、そんな感情を抱くはずがない。




「はやく」




 すずめは、慌てて、服を脱いでいく。体に染みついた痣の色素沈着も、傷跡の数々も、この神様が作った男の前にさらしていいものだと思えなくて、辛かった。辛く思うことが、悶えるほど、恥ずかしい。

 髪や体から泡が流れて、顔に垂れていく。男が乱暴に顔にシャワーを向けると、最初と同じように溺れてしまう。

 父が溺れたお湯の温度と、きっと、同じだ。どれくらい苦しかっただろうか。濡れた包帯が張り付く感覚が、あの時、張り付いたスウェットの気持ち悪さに、似ていた。






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