Parthenophobia
「社長」
篠山正臣は、社長室の椅子で、並べられた書類を順番に見ていた。今季決済による株価の動向予測だったが、どう転んでも悪いようにはならないだろう。この分であれば、もう少し、開発事業に予算を回してもよさそうだ。正臣が篠山製薬の社長になったのは、4年前だが、メディアへの露出は一切ない。広報は、ぜひともと、しばしば言うが、正臣は、自分をマスコットにするつもりはなかった。
呼びかけてきた秘書は、中途採用の女性だ。トリリンガルの志筑汐里は、とても魅力的な女性で、街を歩けば、声をかけられるタイプだ。志筑はそれを知っている。真っ赤な口紅が、また動いた。
「休暇はいかがでしたか?」
「ああ、悪くなかったですよ。久しぶりにゆっくりさせてもらった」
「どちらに?」
「このご時世だからね。少し、別荘に行ったくらいです」
「まあ、どちらの?」
「山の方の。祖父が趣味に使っていた別荘ですよ」
正臣は、微笑んだ。志筑が、自分に向ける感情は、分かっていたが、応えるつもりは全くなかった。
いつか、ご一緒したいわ
そう、目が語っていることも知っていたが、正臣は微笑むにとどめた。
志筑が部屋を出て行ってから、正臣は社長室の鍵のかかる引き戸から、手帳を取り出した。
生年月日と写真、それから罪状の書かれた一覧表に、二重線をひく。生きたまま女性の臓器を取り出して売買した男、サークルで女性を集団レイプし動画を売り払い自殺に追い込んだ男、その二つを消して、正臣は、止まる。
一覧表はまだまだ続いている。何度、この作業をしても、先が見えないほど続いていた。ここに、あの女性の生年月日を書き足すべきだろうか。あの別荘に、忍び込んだ名前も知らない女性の瞳は、志筑のものとはまるで違った。怯えと恐怖と、仄暗い澱みは、美しい。
正臣は、あの女性が別荘に入り込んだことに、すぐに気づいていた。歩き回るその姿は、目的があるように見えたが、彼女は黙秘を続けている。彼女は怯えてはいるが、その実、どんな暴力にも屈しない強さがある気がした。
「社長?」
ノックと共に入ってきた志筑に、正臣は微笑んだ。
「これから、開発部門と会議です」
「ああ、そうでしたね」
空間除菌に関する開発は、難航を極めていた。他社の従来品は、噴霧による空間除菌が可能だとしているが、科学的な根拠はない。
鍵をかけて、立ち上がる。志筑は、隣に立った。
あの女性は、約束を守るだろうか。逃げ出さないだろうか。正臣は、楽しくなって、笑った。志筑は不思議そうに正臣を仰ぎ見て、赤い唇が弧を描いた。




