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Cleithrophobia

 



 この門をくぐる者は、一切の希望を捨てよ。

 地獄の門をくぐる時、ダンテは希望の一切を捨てた。すずめは、違う。生まれた瞬間から、一切の希望は捨てた。

 青い小さなタイルが敷き詰められた風呂が嫌いだった。こすってもこすっても、溝の間に生えたカビが落ちない。古いタイルばりの床は冷たくて、足がひんやりする。父が寝ている間に、すずめは、一生懸命に風呂を洗っていた。

 もうすぐ、本格的な冬になる。そのたびに期待をする。この寒暖差にやられて、不摂生の父が死んでくれまいかと。

 でも、生まれた時に捨てた希望が、囁くのだ。そんな期待に、何の意味があるのかと。




 「お父さん、お風呂沸いたよ」




 横になって高いびきを搔いている父を揺り起こす。振り向きざまに殴られてもすずめは、痛みを我慢した。




 「お父さん、お父さん」

 「うるせえな!」




 もう一発殴られた。




 「そんなに、入ってほしけりゃ、服を脱がせろ」




 すずめは、両方の拳をギュッと握った。すずめが高校生になってから、父親が時折、性的な目を向けることに気づいていた。風呂場で安らぐことはなかった。唐突に父が、扉を開けることすらあるからだ。




 「なんだ?その顔?俺が、お前みたいなあばずれを相手にするとでも思ってんのか!?」




 また殴られて、すずめは、頭を庇うように両手で守った。しばらくして、飽きたのか、どすどすと足音を立てて、父が、風呂場に向かう。

 その先のことは、よく覚えていない。何度も、父が、すずめを風呂場から呼んでいたけれど、無視した気もするし、行った気もする。気づいた時には、靴下も、スウェットも、トレーナーもずぶ濡れになっていて、父が浴槽に沈んでいた。醜悪な体がふわふわと揺れて見えた。






 「っ!」




 すずめは、ヒヤリとした冷たさで、目を覚ました。何回目になるか分からない覚醒に、すずめは、びくりと体を揺らす。いつもはそこで、足に巻かれた鎖が地面をこする音がするのに、しなかった。

 目を開けると、そこは、いつものスクリーンの白さと暗闇で目がちかちかする空間ではなかった。

 この家に、忍び込んだ日に見た大理石のキッチンだ。

 すずめは、あたりを見回す。自分を繋ぐものもなければ、地下でもない。やっと、悪夢から解放されたのだと思って、両手を見ると血だらけだった。爪の間には垢がたまっている。




 「目が、覚めましたか」




 声のした方向に、勢いよく顔を向け同時に後ろに下がる。すぐに、背中を壁にぶつける羽目になった。男は、すずめが音をたてたことに舌打ちをした。




 「す、すみません」




 蚊の鳴く声で答えると、男はため息交じりに、すずめの前にペットボトルの水を置いた。




 「ただの、水です。」




 親切なのか、ペットボトルの蓋を開けて緩めてから、もう一度閉じて大理石の床に置いた。すずめは、恐る恐る手を伸ばした。




 「ああ、それと、トイレの位置は、分かりますね?」




 汚れたズボンに視線が移った気がして、すずめは、ペットボトルに伸ばしていた手を引っ込めて、着古したニットを下に伸ばした。

 明るい光の中で見る男は、地下での男よりも健康的に見えた。肌は白くきめ細かいが、青ざめているようには見えない。大きすぎない切れ長の二重、嫌味にならない高さの真っすぐした鼻梁、男らしく薄い唇、卵型のシャープな顎に、白く美しい歯並び、髪は黒々としていて流行から外れていない。男性に綺麗という言葉がこれほど似合うとは、すずめは思ったことがなかった。

 綺麗で、どこか中性めいているのに体つきは男性的で、理想のアンドロイドを見ているような感覚だった。誰かが創り上げた、理想的な殺戮マシーンのようだ。




 「私は、これから仕事に行きます。ここに戻るのは、そうだな」




 男は腕時計を見た。高級スーツに身を包んだ男の腕には、銀座でしか売られていないような高級腕時計がされていた。




 「今からだと、19時頃には戻るでしょう」




 盗み見た腕時計は、8時半を指している。




 「約束は、簡単です。一つ、玄関には近づかないこと。二つ、いい子にすること」




 すずめの汚れた体から、男は一歩距離を置いている。自分がどれほど、汚いのか、臭いのか、意識させられた。美しい男と、汚い自分。この男の醜悪な行いを、自分は知っているというのに、どうしてこんなに気後れするのだろうか。

 神様は、不公平だ。




 「できますね?」




 すずめは、懸命に首を縦に振った。男はゆったりと微笑んで、部屋を出ていく。玄関で、扉が閉まる音がするまで、耳をそばだてて少しも動かない。扉が閉まって、自動的に鍵が閉まるジジジジジという音が響いた。自ら出ていくことが出来るはずの檻だ。

 でも、一歩も動くことはできなかった。






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