Pnigophobia
すずめが、判決を聞くことはなかった。結果は分かっていたし、報道は一気に検察の暴走に舵をきった。冤罪の被害にあった若く優秀で美しい製薬会社社長を、こぞって擁護した。
その結果、越後貫は刑事を辞職し、担当検事は出世街道から外れた。
そして、すずめも戻る場所を失った。
もともと、あってなかったような場所だったけれど、すずめの個人情報は全てネット上にさらされた。生まれた村も、大学も、住んでいたアパートも、バイトしていた場所も全て特定されて晒されて普通の人生はもう望めない。
すずめは誕生日に二つ願い事をしたが、結局叶えられなかった。正臣だけではなく、正臣の会社も、越後貫も、あの裁判にかかわった人たちの人生を無理やり賭けさせたにも関わらず、すずめは願いを叶えられなかった。
一つ目は、正臣があの別荘を手放すことになることを願った。あの別荘を手放すことになれば、正臣はもう二度と殺人を犯せないと思ったのだ。でも、あの美貌が世間にさらされ、検察の暴走であると結論付けられた途端に株価は上がり、業績はむしろ好転した。あの別荘が、人手に渡ることも結局なかった。
もう一つは、きっと絶対に叶うことはない。
すずめは、1年前を思い出しながら長い坂道を上っていた。
あの時と同じで、木々がうっそうと茂っていたけれど暑かった。汗がにじんで、すずめは、袖でそれを拭こうとしてから止まる。ポケットから取り出したハンカチで、滲んだ汗を拭いた。
立ち止まって風が吹く方向に視線を向けると、青い海が見えた。
「海だー」
海の見える街に来たのは、はじめてで思わず声を出してしまう。
どこにも戻れなくなった、すずめは先に進むことにした。手を付けないつもりでいた越後貫からもらった10万円で、家政婦に必要な資格を取れるだけ取った。そして、家政婦紹介所に、今野ではなく市瀬の名前で登録し海の見える街での住み込みの仕事を希望した。
生活している上で、経済が上向いていると感じたことは一度もなかったけど、お金持ちのところには変わらずお金があるようだった。上ってきた坂道には、たくさんの別荘が見えた。
紙にプリントアウトされた地図を、上向きにしたり下向きにしたりしながら、すずめは先を目指した。
高台のひと際、大きな門の前で立ち止まる。
紹介所の人には、銀行家の社長夫婦が所有している別荘だと聞いた。明治時代の洋館を移築し、外観はそのままにリフォームしていて、映画のセットのようだったと以前そこで家政婦をしていた先輩が言っていた。
チャイムを鳴らすと門の扉が開いた。返事は聞こえなかったけれど、他の使用人もいるのだろう。初めての職場に、すずめは少し緊張してスカートをギュッと握った。
「はじめまして、桐山家政婦紹介所から参りました、市瀬すずめです。よろしくお願いいたします」
小さな声で何度目か分からない練習をしながら、すずめは家のチャイムを鳴らした。先輩の言った通り古い洋館は素敵だったけれど、挨拶で頭がいっぱいで美しさを楽しむ余裕はない。
がちゃっと音を立てて扉が開けられた。白く塗られた洋館に太陽が当たっているのをずっと見ていたせいか、扉の中が暗すぎてよく見えない。
「あの!初めまして!桐山家政婦紹介所から参りました……市瀬、すずめ」
目が次第に慣れて来て、すずめは言葉が続かなくなった。
引っ張られるままに、すずめが一歩中に入ると扉は閉められて鍵がかかる音が響く。
「ルールは簡単です。一つ、玄関には近づかないこと。二つ、いい子にすること」
「っあ」
手を伸ばされ頬が撫でられる。そこで、すずめは初めて、自分が泣いていることに気づいた。
「おかえり、すずめ」
「った、だいま」
すずめは伸ばされた腕の中に飛び込んだ。
戻る場所なんてない。そう思っていたのに、すずめは、もう一度ここに戻ってこられた。これよりも幸せなことなんてあるだろうか。
この手が、もしも、この後すずめを殺したとしても構わないと思えた。この優しい腕の中で死ねたなら、すずめはそれが一番幸せだと、そう思った。
「愛しているの、正臣さん」
正臣は、すずめにこの言葉を言うことを禁じた。それは、すずめの病気がこの言葉を言わせていると正臣が思っていたからだ。
でもすずめのこの気持ちは、病気ではないことが裁判で証明された。法的にも医学的にも、すずめのこの気持ちは愛情であることが証明された。
だから、この気持ちは間違いなどではない。
もうここから出ていかないように強い力で抱きしめられて、すずめもまたそれを返した。
正臣は、小さくすずめの耳元で答えを囁いた。
耳元でささやかれた言葉は、確かに脳に到達して酸欠だった一つ一つの細胞にまで届けられていく。体は、待ち望んでいた言葉に息を吹き返して、呼吸を始めた。
待ち望んでいたはずの言葉だ。
このために、すべてを巻き込んで証明したようなものだった。だというのに、どうしてだろう。どうして、こんなにも悲しくて虚しいのだろう。この言葉が、さよならよりも寂しいものだと初めて知った。
どうして、寂しくて、悲しくて、虚しいのに、それでも幸せだと思うのだろう。
唇を重ね合わせて、すずめはこの寂しさと悲しさと虚しさこそが幸せなのだと、そう思った。




