Lalophobia
証人尋問を終えて、すずめは傍聴席に座った。マスコミからも注目を集めている裁判だからだろう。傍聴席は埋まっていた。
証言台まで歩いている白いスーツを着た女性は、派手なスカーフを巻いていた。とても趣味が悪いと思った。
白衣を着ていても趣味の悪さが際立っていたのを思い出した。すずめを担当していた白崎舞は、精神科医のほとんどが精神的病を抱えていると教えてくれた。白崎舞の場合には、極度の強迫性障害だと言っていた。
「東京医療大学精神科で、証人・今野すずめさんを診断・治療したのは、あなたですか」
「はい。確かに、今野すずめさんの診断をしました」
「ストックホルム症候群だと?」
「んーっと、それは、うーん、正確ではないですね。裁判でわかりやすくするために、その名前を使いましたが、ICD-10には、ストックホルム症候群というものはありませんから」
「つまり、分かりやすく言うと?」
「つまり、彼女はストックホルム症候群と言える心理状態ですが、正しくはPTSDと診断されます」
弁護人は立ち上がり証人に近づいた。
「PTSDつまり、心的外傷後ストレス障害の定義は何ですか?」
「命の安全が脅かされるような出来事、この場合は虐待ですね。それによって強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活機能の障害をもたらしているストレス障害です」
「つまり、今野すずめさんは、被告人が監禁・虐待を行ったことでPTSDになったということですか?」
「まあ、そう判断しました」
「しかし、今野すずめさんは証言を覆しました。彼女は、被告人に監禁や虐待を受けた事実はないと。そうであった場合、診断は変わりますか?」
白崎舞は焦ったように、ずりおちた眼鏡を戻した。その際に、眼鏡のつるを意味もなく3回触れたように見えた。
「んー、えー、いや、変わらないと思います。彼女は、典型的な不眠や、回避行動、フラッシュバックに悩まされていましたし、虐待について話すことを徹底的に避けているように見えました。1か月以上にわたって症状が見られていましたし、睡眠薬も処方されています。PTSDの定義は十分に満たします」
「虐待について、話すことを徹底的に避ける?」
「とにかく、話しませんでした。6か月間の生活について、話すことはあっても、殴られたり蹴られたりしたこと、虐待の内容については、必ず口を閉ざします。これも、典型的な、」
「それは、虐待の事実がなかったからではありませんか?」
「……それは、でも、体に傷がありました!」
弁護人は、今度は優しく微笑んだ。それが正臣の微笑みに酷似して見えた。
「あなたは、その傷を直接見ましたか?」
「はい」
「いつできた傷か、診断できましたか?」
「……それは、私は、体の専門家ではありませんから、分かりません。でも、足の骨折に関しては、新しい傷だと分かりました。それに、もし、証言通りに塀から落ちたというのなら、折れるのは、足関節じゃなくて踵の骨だと思います」
「ここで、東帝大学整形外科学診療部長の長門洋二郎先生の診断書を提出します。ここには、転落による外傷において骨折しやすい骨は、踵骨、腰椎ではあるが、足のつき方によっては、脛骨・腓骨遠位端骨折が起きる可能性が否定できないとあります。つまり、転落でも証人のような骨折が起こりえるということです」
白崎舞は、今度は首に巻かれたスカーフに三回触れる。
「それでは、もう一度、状況を整理しましょう。証人、あなたが、今野すずめさんが被告人との生活の中で虐待を受けていたと考えた根拠は、骨折以外に何がありますか」
「刑事さんの説明です」
「その刑事が、被告人を罰したいがために、嘘をついていたとしたら。虐待の証拠は、他にありますか?」
「……ありません。でも、彼女は、確かにPTSDの症状を呈していました」
「PTSDは、確か、1か月以上症状が継続するとありますね。それは、どれくらい続くものですか?」
「……っあ」
「お気付き頂けましたか?」
白崎舞は、ハンカチを取り出して握りしめた。それも3回だった。白崎舞の言っていた強迫性障害が、すずめには分かった気がした。
「今野すずめさんは、かつて父親から筆舌に尽くしがたい虐待を受けています。何度も児童相談所に事案報告されていましたが、周囲の証言や本人の証言で撤回をされていた。でも、健全な家庭において、何度も児童相談所に相談が寄せられるでしょうか。彼女の骨折痕は一か所ではないし、体の傷は、とてもじゃないが数えきれない。つまり、彼女は、」
「虐待サバイバー」
「そうです」
「そうか、そういうことか」
白崎舞は、確信を持ったように証言台を叩きながら立ち上がった。目の前で自分自身の人生を晒されているのを見ると、とても恥ずかしかった。まるで結婚式で流される幼少期からの映像のようだった。太陽の光を浴びて育った人だけが、流すことのできる映像だと思って来た。すずめは、人に見せられるような人生を歩いてきていない。
「今野すずめさんは、PTSDです。でも、6か月の監禁や虐待の事実がないなら、原因は幼少期からの虐待になる。つまり、彼女は、正しい治療を受けられず、慢性的な症状を呈したPTSD。複雑性PTSDと呼ばれていて、ICD-11で新たに定義づけされた概念。C-PTSDと呼ばれて、長期的反復的なトラウマを受けた人に多く見られます。感情調節が、」
「証人、証人、落ち着いて、分かるように説明してください」
「だから、だから!認知行動療法が効果を示さなかったんだ。ストックホルム症候群に類する症状を呈している場合、認知行動療法で、被害者が感じている感情や絆は、生存戦略の一つであり、決して、愛情や恋情といった感情によるものではないことを認識させる必要があります。でも、彼女には、それが全く効果がなかった」
「それは、なぜですか?」
「虐待の事実がないのであれば、彼女は、そもそもストックホルム症候群ではない。だから、認知行動療法なんて効くはずがない。だって、すずめちゃんと、被告人の間にあったのは、正真正銘の信頼関係ですから!」
「弁護側からは以上です」
弁護士バッチの天秤が、ゆらゆら揺れたように見えた。




