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Sarmassophobia

 



「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べない旨を誓います」




 すずめの声は法廷に嫌というほど響いた。傍聴席でペンを動かす音だけが聞こえている。

 被告人席には、正臣が座っていた。高級そうなスーツ、しわのないYシャツは、あの家で過ごした時間を嫌でも思い出させる。

 うつむいたまま、すずめは正臣を視界に入れないようにした。すずめを診た医師に、そうするように言われていたからだ。




「証人・今野すずめ、以下甲は、被告人・篠山正臣、以下乙の所有する別荘で半年間、監禁され身体的・精神的虐待を受けた。別荘内の地下に少なくとも1週間、鎖で繋がれた状態で監禁され、殴る蹴るの暴力を振るわれたほか、両足の足関節をハンマーによって殴打され骨折した。これに関しては、診断書を提出しております。甲は、地下から解放された後も、虐待を日常的に受けたため、逆らえない状態となり、別荘内での生活を余儀なくされた。半年間の共同生活の間、甲は、乙が地下室で犯した殺人を、少なくとも5件目撃している。被害者は、男性が4人、女性が1人と、甲が持ち出した、乙のノートの記載とも一致している。」




 検察が、すずめの証言を端的にまとめたものを、裁判官が眺めていた。その後、詳細に語られた殺人の概要は、すずめのした証言からほとんど外れていなかった。




「証人、……証人!」

「……はい」

「証人、検察の述べた、あなたの証言に嘘偽りはありませんか?」

「……それは」




 どうしてだろう。どうして、こんな時に正臣と過ごした日々を思い出してしまうのだろうか。




「証人?」

「証言は、全部、」




 初めて、お風呂に一緒に入った日。初めて、一緒に出掛けた日。初めて、一緒に食事をした日。初めて、一緒に眠った日。正臣が買ってくれたもの。正臣が与えてくれたもの。ギュッと抱きしめられた時の温かさと匂い。優しく頭を撫でられる心地よさ。誕生日を祝ってくれたこと。




「全部、嘘です」

「証人?」

「全部、嘘です。その証言は、全て、間違っています。私は、被告人に監禁されていないし、虐待されていません。被告人が人を殺した事実は、ありません」

「証人!何を、何を言っているんだ!」




 検察官が唾を飛ばす勢いで、怒鳴り散らしたのを見て、すずめはビクリと震えた。視界の端で正臣が顔を上げたのが分かった。




「証人、今の証言は真実ですか」

「はい。宣誓を違えるようなことはしません。私は、被告人に監禁も虐待もされていません。被告人が、あの別荘に人を連れ込んだり、地下で人を殺していたという事実はありません」

「では、この証言は?」

「警察署で、脅迫されて、証言を強要されました」

「な、なにを言っているんだ!そんな事実は!」




 検察官は、静粛に。ドラマで聞いたことのある低くて冷たい声が、法廷では響いて聞こえる。傍聴席はざわめくどころか、水を打ったような静けさだった。




「検察官、ならびに弁護人。この裁判での争点ともいえる証人の証言が、撤回されましたが、このまま証人尋問に移っても構いませんか?それとも、本日は閉廷とし、後日、証人尋問を行いますか?」

「私たちは、このまま行って構いません。検察側に委ねます」




 すずめは、裁判官の言葉に確信した。越後貫に渡した証拠は、決定的なものにはならなかったのだ。遺体なき殺人事件を立証することは、不可能ではないが困難であることは、過去の判例から予想がついていた。警察も検察も、センセーショナルな殺人事件と、そして製薬会社社長という上流貴族を引きずり落とすことに躍起になって、証拠の少なさに目を瞑ったのだ。

 たった一つ、すずめの証言という根拠だけで、正臣を有罪に持ち込もうとしている。

 すずめは、小さく手を挙げた。




「証人、何か言いたいことが?」

「はい。私は、警察署で、命の危険を感じるような脅迫を受けました。もし、裁判で証言を変えたことが、その担当刑事に知れたら、また脅迫されるかもしれません」

「つまり、今、証言をしたいということですね」




 すずめは強く頷いて見せた。裁判官と検察官、そして弁護人がしばらく話し合っている。その間、被告人席から強い視線を感じ続けたが、すずめはうつむいたまま決して視線を合わせようとはしなかった。




「では、証人尋問を始めます。検察官」

「はい。証人、あなたは、10月12日に被告人の別荘を訪問し、その日から監禁され、同日、両足の骨をハンマーによって殴打され骨折したと証言しましたね。診断書には、半年から1年以内の間に両足を何らかの外力によって骨折したものと考えられる。また、適切な固定や手術は受けていないと書かれています。この診断書は、あなたの証言と矛盾しないようですが、どう説明しますか?」

「10月12日に、私は、被告人の別荘に行きました。あの家の塀から落ちて、両足を骨折しました。被告人は、足の骨を折った私を、保護してくれました」

「病院に連れて行かず、適切な治療を受けさせなかった。それは保護とは言いません」

「私が、断ったんです。病院には行きたくないと。お金がなかったし健康保険は、違法だと分かっていましたが、外国籍の方に売ってしまったので保険証も持っていませんでした」




 すずめは、ぎゅっと自分の履いているスカートを握りしめた。黒いスカートに、手の汗が移る。




「塀から落ちたというのは?」

「不法侵入を試みたのですが、中に入るときに滑って落ちました。どのように足をついたかは覚えていませんが、気が付いた時には、両足とも腫れあがっていました」

「不法侵入?」




 すずめは自分の手がわずかに震えていることに気づいた。これから、すずめは自分の願いのために人を貶めるのだ。


 自業自得だ


 そう思う反面、すずめは自分が正義だとは思えなかった。




「10月12日に、私が被告人の別荘に行ったのは、依頼を受けたからです」

「依頼?」

「はい。ジャーナリストの越智という人でした。日給25万円で、被告人の別荘に行き、地下室を見つけ、写真を撮ってくるように言われました。10万円、先払いで貰って、別荘の鍵を渡されました」




 一瞬、法廷がざわめいたようにも思えたが、裁判官が木槌を打ったり静粛にと声を荒げることもなく収まった。




「ジャーナリストの越智。その人が、あなたの言う通り、本当に存在したとして、その人から明らかに違法な依頼を、あなたは受けたということですね」

「はい。大学に復学したいと思っていました。そのためには、お金が必要でした」

「あなたのいうジャーナリストの越智、その人が真実いたとして、何のためにそのような依頼をしたのでしょうか?」

「被告人が殺人を犯しているという証拠を望んでいたと思います」

「なぜ、そう思うのですか」




 検察官は、グレーの縦じまのスーツを着ていた。正臣は、そんなダサいスーツを絶対に着たりしなかった。




「ジャーナリストの越智は、私に証言を強要した刑事だからです」




 今度こそ、傍聴席も、そして弁護人も検察官も驚きの声を上げた。




「似ていた、ということですか?同一人物だという確証はありますか」

「本人が、そう言いました。でも、客観的証拠が必要ならば、あります。ジャーナリストの越智から名刺を渡されました。ロッカーに預けた私のカバンの中に入れてあります。越智は、それを素手で触っていました。指紋が取れると思います」

「……あなたは、証言を覆しました。それは、被告人のためですか」




 すずめは小さく息を吐き出した。すずめは今まで生きてきて好きなものなんて、ほとんど存在しなかった。思い出そうと振り返る過去もなければ、想像する明日もなかった。でも、あの家で過ごした半年間は何度も思い出す。何度も振り返る。そして、もう来ることのない明日も想像した。




「罪のない人を陥れたくないからです」

「あなたは、精神科専門医による診断を受けていますね。その診断書には、何と書かれていましたか?」

「知りません」

「知らないはずはありません。そこには、こう書かれていた。ストックホルム症候群と」




 わざとらしく、ゆっくり読み上げられた診断名に、検察官が何を証明しようとしているのかが分かった。




「ストックホルム症候群。誘拐事件や監禁事件などにおいて、被害者が生存戦略として犯人との間に心理的なつながりを築くこと。映画やドラマにもよくなっていますよね。監禁された被害者が、加害者に好意を持つ状態が。あなたは、被告人に好意を持った。もしかしたら、体の関係もあったのかもしれない。恋人のような間柄になり、あなたは、証言を覆した」

「異議あり!証人を侮辱しています」




 異議を認めます。

 これもドラマや映画で良く見る光景だった。すずめは、テレビの向こう側の世界にいるような感覚を得た。




「ストックホルム症候群というのは、正しくありません」

「あなたは、ストックホルム症候群ではない?診断書に、そう書かれているにも拘らず?」

「ストックホルム症候群は、俗称です。精神医学的には、ストックホルム症候群という分類は存在しない。ストックホルム症候群は、心的外傷後ストレス障害・PTSDの亜型です。私はPTSDだと診断されたんです。それに、そもそも監禁や虐待の事実がなければ、ストックホルム症候群とは言えません」




 誕生日ケーキの蝋燭を吹き消した時、すずめは願い事をした。すずめの願いを叶えてくれる神も仏もいないことを知っていた。だから、すずめはその願いを自分の手で叶えようと思った。


 ずっと、一緒にいよう


 二人で交わした約束は守られなかったけれど、すずめは自分の願いを自分で叶える。そのために、ここまで来たのだ。




「あなたの体には複数の傷があった。切り傷だけじゃない、火傷の痕や、古い打撲痕もありました。その傷は、被告人に暴力を振るわれていた証拠に他ならない」

「それは、古い傷です。切り傷も、やけども、殴られた痕も全部。私に、その傷をつけたのは被告人ではありません。私の……私の父です」




 もう一度、ギュッとスカートを握りしめた。




「すずめ……すずめ、無理して言わなくていい」




 こらえていた涙がこぼれ落ちた。スカートを握りしめたまま、声のした方に反射的に顔を向けてしまった。正臣が、じっと、すずめを見ていた。




「被告人は発言を控えてください」




 浴槽の中で溺れる父が吐き出す空気の泡の音が、耳元で聴こえる。

 あの日からずっと、すずめ自身も溺れていた。そこから掬い上げてくれたのは、正臣だった。だから、すずめの神様は正臣になった。

 あたたかなベッドで包まれて眠る優しさを知った。母親がするように、つむじに口づけを落とされる心地よさを知った。




「弁護人の証人尋問を始めます。証人、一つだけ、質問させてください。これは、あなたにとって、とても、辛い質問かもしれません。だから、一つだけ」

「はい」




 正臣の弁護人は、どこか正臣に似ていた。優しさという仮面をつけることを知っている。




「あなたは、父親に虐待を受けていましたか」

「……はい。生まれてから18歳になるまで、父に暴力を受けて育ちました」

「弁護人からは以上です」

「弁護人。質問は、それだけで構いませんか?」

「証人に苦痛を与える質問はしたくありません。次の証人尋問で、依頼人の無実を証明します」




 すずめは、深く深く呼吸をした。それでも耳元で水の音が聴こえた。吐き出した泡の中に、もし言葉が見えたならきっとそれは、すずめを呪う言葉だろう。そう思った。








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