Theophobia
すずめは、大学での座学を終えて、田所に送られて別荘に戻った。車を降りて手を引かれて玄関まで歩く。
「すずめ様、体調がお悪いのですか?」
「ううん、大丈夫です」
「顔色がお悪く見えます。寝不足ですか?坊ちゃまが心配されますよ」
老齢といえる年齢で痩せて骨ばって見える田所だが、体術の心得があるようで隙がなく見える。その田所も坊ちゃまと正臣を呼ぶときだけ、優しさをにじませる。
ずっと心配していた
すずめを見た時、田所はそう言った。
ずっと、坊ちゃまを心配していた。もう大丈夫だと思ったら安心しました
その言葉の意味が今ならわかる。
「平気よ。田所こそ、まだ寒いから風邪をひかないようにね」
もう春が近づいているというのに、外は肌寒かった。部屋に入ると床暖房がきいていて、足から温まった。
あの日、さまようように歩いていたすずめを、血相を変えた田所が見つけて代車で送り届けてくれた。正臣はひどく取り乱していたし、とても心配された。それが、唯一の証拠品が逃げ出した可能性に対する焦りだと分かってしまうと、ただ虚しかった。
「すずめ、ケーキを買ってきました」
「え?」
夕食をとり終えて、すずめは、片づけをする正臣のことを眺めていた。正臣は、すずめが手伝いをすることをとても嫌う。料理や掃除、洗濯の全てを、すずめから取り上げるのだ。
すずめは何もできない
正臣が真実そう信じていることが、すずめには分かった。実際はすずめは、1人で生活してきたのだから、料理も掃除も、洗濯も、何もかも一通りすることはできる。でも、正臣がそう信じているから、すずめは、何もできないかのように振舞うのだ。
「今日、すずめの誕生日でしょう?」
「どうして、知って……」
「私は、すずめのこと何でも知ってますよ」
すずめは嫌な汗が背を伝うのを感じた。後悔とも、焦りともつかぬ感情が、すずめの心の中でゆらゆら揺れている。
「お祝いしましょう?」
正臣は微笑んだ。前はその微笑を見ると安心できた。でも、今はあの写真を思い出す。サエの隣で、ただただ嬉しそうに純粋に笑う正臣はすずめには絶対に手に入らない。微笑みを見ると、それを突きつけられる。
蝋燭をさしてマッチで火をつけた。木が燃えるその匂いが、小さなころの河原のキャンプを思い出させた。
「願い事を思い浮かべながら、吹き消すんですよ」
「願い事?」
「そう。必ず、叶いますから」
必ず叶う。
もし、そんな願い事があるなら、すずめは、たった一つだけ願うだろう。目を閉じて深呼吸して、ゆっくりと蝋燭を吹き消す。
正臣が、微笑んで、ケーキを切り分ける。その姿を見つめながら、すずめは瞬きを繰り返した。この瞬間の中だけで、生きていられたら、それは、きっととてつもなく幸せなことだろう。
「何を願いましたか?」
「それは」
ケーキを目の前にして、フォークを持ったまま動かないすずめに、正臣は問いかけた。答えたら、願いはかなわなくなってしまうのではないか。そう思ったけれど、この願いが叶わないことは、すずめが一番よく知っていた。
「……ずっと、一緒に」
小さく呟くと瞬きをやめた目に、ゆっくりと涙がたまった。乾燥した目を潤すように涙がたまって落ちていく。
「ずっと、一緒にいたかった」
正臣は少し驚いたような顔をした。その時、チャイムが鳴った。
インターホンの前に正臣が行くのを見て、すずめは玄関に向かった。
一つ、玄関には近づかないこと。二つ、いい子にすること。
正臣と交わした約束とも、命令ともつかないそれを思い出す。正臣は、扉を開けたすずめの腕を取った。もし、もう少し早く正臣が追い付いてくれていたら、この扉を開けずに済んだのかもしれない。
「警視庁・捜査第一課です。これ、家宅捜索令状。分かりますね?」
「……そういうことですか」
すずめの腕を握る手はほんの少し強められたけれど、そこに怒りは感じない。すずめの裏切りに、正臣が気づかないはずないのにどうしてだろう。
本にある通り殺人鬼は殺人を止めたがっているのだろうか。すずめの裏切りに気づいていないのだろうか。それとも、すずめの裏切りを知ったうえで、まだ利用価値を見出しているのだろうか。
「身に覚えがありますね?」
「いいえ、全く」
「あなたの身柄を、確保させていただきます」
すずめが正臣を見上げると、正臣はすずめを見つめ返した。その瞳に裏切り者と罵られることが恐ろしくて、すぐに目を逸らした。
「容疑は?」
「殺人罪です。抵抗なさらない方が、あなたのためです」
おろしたてのように綺麗に糊付けされたグレーのスーツの男は、刑事というよりは弁護士に見えた。すずめの知っている汚くて現場を這いずり回っている人は、少し後ろで、ぎらついた瞳で正臣を見つめていた。
「19時56分確保」
両手に手錠をかけられる。その姿を見た瞬間に、すずめは抵抗しようと両手を伸ばした。これは自分が招いたことだ。だというのに、どうしてか体が勝手に動いた。
刑事が何人か、すずめを取り押さえる。それを見て、はじめて正臣が大声をあげた。
「すずめに触るな!」
すずめの体は力を失って膝をつく。どうして、こんなことになってしまったのだろうか。すずめは、ただ正臣とずっと一緒にいたかっただけだというのに。
二人でずっと、一緒にいたかった。ただ、それだけだったはずなのに。何度も、何度も、すずめは正臣との絆を確かめていたはずだ。でも、すずめは信じられなかった。
最後には、越後貫の言葉を信じた。この裏切りに正臣が気づいた時、願いは絶対に叶わなくなる。正臣が絶対に叶うと言った願いは、きっと一生叶わない。
すずめは声を上げて泣いた。この涙を、正臣がぬぐってくれることは、もう二度とない。それだけは、すずめにも分かった。




