Venustraphobia
いつもは迎えに来ている時間だというのに、田所の姿も車も見当たらない。
すずめは不安に思いながら、ただ田所の車を待っていた。こんな時に連絡手段がないと困ることに気づいて、正臣にスマホをお願いしようと決める。
「あの、いつもお迎えに来ている人ですけど」
大学の受付に声をかけられて、すずめは振り返った。けばけばしい化粧につけまつげ、派手なネイルが目に入った。
「駐禁切られて、レッカーされちゃってました」
「え?」
「ここら辺は、駐車禁止なんですけど、人に声をかけられて降りた隙に、駐禁を切られて、ほぼ無理やりレッカーされてました。」
強引なやり方だったから、目についた。その事務の女性の言葉に違和感を覚えた。嫌な予感がよぎって、すずめは、家を目指すことにした。入れ違いになっても、それでも、帰った方がいい。たとえ、途中で歩けなくなったとしても、あの家に帰りたい。
すずめが、踵を返して歩き出そうとした瞬間に、肩を強く取られた。
「っ!」
「見つけたぞ、市瀬すずめ」
くたびれたYシャツと、鼻につくほどのタバコのにおいに、すずめは目を見開く。無理やりに腕を取られて、抵抗できないように後ろにねじ上げられる。悲鳴を上げるよりも先に、越智が歩き始めた。事務の女性に視線を向けたが、慌てたように逸らされた。
面倒ごとを避ける目だ。
すずめは、この目を知っていた。すずめが、父に虐待を受けている時も、借金取りに追われている時も、皆、この目をしていた。誰も、助けに入ろうとしない。すずめを空気として扱うことを決めた目だ。
「離して」
「断る」
抵抗しようと捻られた手を動かそうと藻掻くが、足を蹴られて、すずめは反射的にかばうように歩く羽目になる。すぐに、近くに止まっていたワゴン車の後部座席に詰め込まれた。
駐車禁止区域のはずなのに
すずめの疑問に答える形で、越智は胸ポケットから、手帳を取り出した。開かれたそこには、ドラマでしか見たことのない旭日章があった。
「あなた、ジャーナリストじゃ」
「警視庁捜査第一課・越後貫だ」
「うそ、」
「嘘なもんか。あんたが、姿を消して、殺されたんじゃないかと心配してたんだ。そしたら、びっくり、あの男と一緒に生活してるって言うじゃないか」
すずめは、自分側のスライドドアに後ろ手に手を伸ばそうとした。越智、いや越後貫は、それに目を細めてから無駄だと小さく言った。
「それで、家に地下室は?何人殺してた?殺しの方法は?遺体の隠し場所は?」
「し、知らない」
「知らないはずないだろ?一緒に生活してるんだ。あの男が、殺しをしてるのは確実なんだ。あんたが証言すれば、あいつをぶち込める」
「知らない!」
「それとも、なんだ?あんたも協力してんのか?」
「違う!」
すずめは、声を張り上げた。そうすればするほど、肯定しているように聞こえた。
でも、すずめは、正臣と約束したのだ。ずっと、一緒にいると。そのためなら、すずめは嘘をついたっていいと思っていた。正臣がどんなに罪を重ねていようと、すずめは構わないと思った。約束はしてくれなかったけれど、すずめのためなら、正臣はきっと、殺しをやめてくれる。ずっと一緒にいるために、正臣は、きっともう殺さないでいてくれる。
「あんた、惚れたのか?あの、悪魔に」
すずめは、何も答えなかった。それなのに、越後貫は、笑い始めた。その笑い声は、けたたましくて、越後貫の方がよっぽど悪魔のようだった。
「馬鹿だな、あんた。あの悪魔、顔はいいし、金持ちだ。で、あんたのことを、大切だ、好きだとでも言ったんだろう?」
すずめは、また、何も答えなかった。でも、わずかに表情が変わったのを見て、越後貫は、また、笑い出した。
「あの男の手法に、まんまとハマったわけだ」
「……どういう意味」
その問いかけに、なんの意味があるというのだろうか。すずめの質問の答えなんて、分かっていたのに、それでも虚勢を張って聞いてしまった。
「あんたは、利用されてるんだよ」
越後貫は、決して広くはない車内で、タバコを吸い始めた。その匂いが、父を思い出させて、吐き気がした。
「あいつがなんで、殺しを始めたか、聞いたか?まあ、教えるわけないか」
すずめは得も言われぬ感情に襲われた。まるで、すずめよりも越後貫の方が、ずっと、正臣を分かっていると、言われているようだった。それが、悔しいのか、苦しいのか、それとも続きを知りたくないのか、焦燥ともいえる感情は、すずめをクラクラさせる。
「愛した女のためだよ」
タバコの入ったポケットの内側から、一枚の写真を取り出す。今よりも若い頃の正臣と、その隣で、ピースサインをする美しい女性が写っていた。花柄のワンピースが良く似合う、とてもきれいな人だった。
「篠山正臣が、生涯唯一愛した婚約者だ」
生涯唯一という言葉が、なぜか、ひどく突き刺さった。震える手で写真に手を伸ばすと、越後貫はサッとそれをひっこめてしまう。
「キレイな女だろう。飯山サエは、あの男の幼馴染で、大学卒業後すぐに結婚する予定だった。クリスマスの夜、デートをすっぽかしたサエを、あの男は必死に探した。警察にもすぐ届けて。でも二日後、サエの住んでいた高級住宅街とは遠く離れた下町のゴミ捨て場に捨てられていた。それも、手足と胴体を、切り離された状態で」
すずめは今度こそ、その写真を手に取った。そこには、感情の欠落した笑顔しか見せない正臣はいない。ただただ、純粋に嬉しそうに笑う正臣がいた。
「本当はばらばらにしたかったんだと、言っていたよ」
「犯人が?」
「犯人は15歳の少年4人。サエの家の近所に住む、金持ち息子たちだった。サエを監禁してレイプした挙句に、絞め殺して、証拠隠滅のために切り刻もうとして失敗した」
「それって」
「少年法に守られて、全員、今は名前を変えて、普通の生活を送ってる」
「っそんな」
だから、正臣は、正義を代行するようになってしまったのか。この写真の中ではあったはずの感情を、代償にして、殺しを始めた。
「あいつが、殺しを始めた理由だよ。いつか、自分の愛した女を殺した奴らに、復讐するために。殺し続けてるんだ。歪んだ正義とやらを振るってね」
正臣は、確かにすずめに言ったのだ。ずっと一緒にいようと、そう言った。でも、そこに感情なんてあったのだろうか。越後貫の言う通り、すずめは殺しを続けるために利用されているだけではないのだろうか。だから、すずめがどんなに頼んでも、殺しをやめてくれないのではないだろうか。
「あんたは、利用されているだけだよ」
「違う、違う、違う……違う!」
「何が違うもんか」
「正臣さんは、ずっと、一緒にいるって、」
「お前、本気で思ってんのか。この女に、自分が勝てるって。まして、死んだ女に!」
「私は!……私は、」
震えた手が、写真を強く握る。写真の中の正臣の笑顔が、すずめの心を凍えさせていく。
顔を上げると涙が、一筋落ちていった。自分のことだというのに、伝う涙が、どこか他人事のように思えた。
「……証拠を、持ってこい」
「しょう、こ」
「俺が、あいつを、ぶち込んでやる」
正臣の復讐は、きっと、まだ終わっていない。名前を変えた少年Aたちを、正臣はきっと、ずっと探している。その復讐のために、すずめは利用されているのだ。裏切らないように、飼われていただけなのだ。
気づきたくなんて無かった。初めて与えられた誰かに抱きしめられる温かさも、大切にされていると感じたことも全部、すずめを利用するためだった。ずっとそばにいたいと思ってしまったことが、悔しくて、惨めで、涙が出た。
正臣は愛しているとは絶対に言わない。その理由が、その意味が、分かった時には遅かった。
代わりに使う大切だという言葉が、ずっと一緒にいようという約束がさよならよりも、ずっと悲しいものなのだとはじめて知った。
そんなこと、知りたくなどなかった。
今後、警察や法律、司法、裁判についての描写があります。
裁判その他については、専門外で調べても分からなかったことも多いです。
フィクションであることを、ご承知おきくださいますようお願いします。




