Malaxophobia
すずめは今日も嬉しそうに正臣が選んだ服を着て、田所の運転する車に乗り込んで大学に向かった。
大学に行くために、すずめは早起きをするようになった。正臣は一人で眠るそのわずかな時間に夢を見る。
髪の長いすずめくらいの年頃の娘が、痣だらけの体で髪を振り乱し足を血で染めて、ゴミ置き場から立ち上がり正臣を探している。
「正臣、正臣」
しゃがれた声が、ずっと正臣を呼び続けている。正臣は抱きしめなければならないと思うのに、どうしても怖くて隠れてしまう。そうすると、その声は次第に恨み言に変わっていくのだ。
「正臣、あんたが、遅れたせいで!10分遅刻したせいで!私が、こうなったのよ!正臣!」
しゃがれた声がずっと恨み言を叫び続ける。もともとどんな声だったか、もう正臣には思い出せない。夢はいつも、正臣を責めた。夢から解放されるために原因を探し求めたその結果、世界は害虫にあふれていることを知った。夢から解放されるために、害虫を駆除し続けたけれど、結局、正臣を恨む声は消えなかった。
すずめが現れるまでは。
しゃがれた声が元々どんな声だったか思い出せないことが嫌で、正臣はすずめと同じ時間に起きるようになっていた。そうすれば、明け方に嫌な夢で目を覚ますことも、隣にいないすずめを慌てて探す必要もない。
大学へ行くための用意をしているだけのすずめを、常とは違う様子で抱きしめると、すずめは困ったように笑う。
すずめには外の世界を見せてあげたい。閉じ込めて社会から隔絶するのではなく、ちゃんと生きていけるようにしてあげたい。苦しみも悲しみもないように、正臣の近くで庇護を受けながら、安心して社会に出してあげたい。そう望んですずめを大学に復学させたというのに、正臣は不安にさいなまれるのだ。
もう、すずめには正臣しかいない。正臣にもすずめしかいない。
そうあってほしいし、そうでなくてはならない。だから、すずめの交友関係は徹底的に選別する必要があった。
外の世界は危険なのだ。ごみむしがすずめを害することがないように、正臣がひねりつぶしておかなければならない。明人の報告書をゴミ箱に放って、正臣はTシャツにグレイのジャケットを羽織る。
「あ、いえ、先輩。私は、サークルには入るつもりなくて」
「絶対楽しいよ!この時期じゃん?勧誘会は少人数で、すずめちゃんだけのためにやるつもりなんだ」
食堂で和食を選んでいたすずめは、目の前に座った先輩とやらに話しかけられて一向に食事が出来なくなっている。男が、すずめの右手を両手で握ったせいだ。
「私、講義が終わったら、家に帰らないと」
「門限?親が厳しいの?すずめちゃんお金持ちそうだもんね。それだったら、授業があるって言えばいいじゃん。サークルは課外授業みたいなもんだし、就活にはサークルの所属は重要になるよ」
すずめは復学するまで、この先輩と呼ばれている岡本忠司と同じ学年にいた。貧乏でその日の食事にも事欠くすずめのことは視界にすら入れていなかったくせに、正臣が大切に大切に慈しんだすずめのことは、この害虫には魅力的なメスに見えるらしい。
「あの、でも、ほんとうにサークルには、」
「っじゃあ、個人的にはどう?俺とデートしない?」
すずめは、懸命に拒絶するように手のひらで相手の両手を押し返したが、男は同意だとでも思ったかのように頷きを返している。
「わ、わたし、次の講義が」
すずめは、男性にこんな扱いを受けたことがない。幼少期から父親と母親に虐待を受けて育ち捨て猫よりも不潔で不憫なすずめに、誰も近づこうなんてしなかった。人の皮を被った化け物は、貧しい娘を少額の金で好きにできる存在だと思っているし、化け物以外の大人は見て見ぬふりだった。だから、すずめはこんな風に扱われることに慣れていないし、望んでいない。
正臣はすずめを大切にしている。大切にしているから、困らせるような扱いを絶対にしない。それを、この男は軽薄にすずめを扱おうとする。ゴミで害虫で化け物だ。
「すずめ」
「正臣さん!なんで、ここに?」
「そんなことより、困りごと?」
明人といい、正臣といい、この大学の警備体制はザルだ。高額寄付金者として、一度意見を申し立てよう。
「すずめちゃん、誰これ」
「君のことは知っていますよ。岡本貴司、21歳、経済学部学生。成績は中の下。父親は一部上場会社の下請け町工場社長。母親は父親の会社で事務。中学生の妹が一人。君の父親の会社は技術力はあるみたいですね。僕の会社の孫請けだ。君は中小企業の何が不満なのか知らないけど、パーティーサークルで派手にお金を集めて企画をして、それで作った人脈でIT企業にでも勤めようとしているのかな?いまは小さな広告代理店の一つで簡単なアルバイトをしていますね」
「……何者だよ、お前」
「まあ、小さな罪はいくつかあるけどね。起訴されるかは……どうかな。お酒の過ちは誰にでもありますから。でも、内々定は撤回されるかもしれませんね」
「俺、講義があるので、失礼します」
「そう?」
岡本は蒼い顔をして席を立った。その席に正臣が代わりに座る。あからさまにすずめがほっとした表情をする。
「大丈夫ですか?それとも、余計なお世話でしたか?」
「ううん、ありがとう。しつこくて困ってたから」
嫌味半分で放った言葉を、すずめは理解しなかったようで本当に安心したように笑った。食事は終わっていないのに、食欲がなくなったらしいすずめは、お盆を脇に寄せる。正臣の両手をすずめがとる。中手指節関節の色が変わった部分を、親指で撫でた。
人がまばらな食堂だが、正臣の容姿のせいで明らかに注目を集めているが、それにすずめは気づいていなかった。
「……正臣さん、手は大丈夫?」
「もう大丈夫です。骨に異常もなかったし、腫れもひきました。すこし、色が残ってますけど、そのうち消えます」
すずめの消えない傷とは違う。正臣が罰するために傷を負っても、それは簡単に消える。ゴミたちのせいで、すずめに残ってしまった傷は、どんなに正臣が一生懸命ケアしてやってもなかなか消えない。
「後悔してますか?」
どうして、すずめがあの選択をしたのか正臣には分かる。それをすずめが真実望んでいた訳ではなく、すずめのあれは証明のためだった。
「どうして?一生、一緒にいるの。だから、何も怖くないよ」
正臣に笑いかけるすずめに、言いようのない感情が胸を駆け巡った。すずめのこれは、病気だ。本当に正臣を愛しているわけではないはずだ。正臣が抱く感情に、すずめは同じものを返すことはできない。
でも、すずめは母親よりも正臣を選んだ。愛していることを証明するために、すずめは母親を切り捨てたのだ。
それも病気がさせたことだと思うと、この拙い証明をどう受け止めてやればいいか分からない。
「正臣さんと、こうやって大学に通えたら楽しかったのにな」
すずめの小さな一言で、正臣はびくりと震えた。目の前に座るすずめが、夢の中の髪の長い女に一瞬見える。
「正臣さん?」
「……なんでもありません。今日は、もう帰りますか?」
「さぼって?」
「ええ。さぼって、デートに行きましょう」
すずめは小さく嬉しそうに微笑む。デートに行く前に、化粧を直してほしいとねだるすずめに、正臣は微笑みを返した。唇に指先でぽんぽんと口紅を塗る。その唇に無意識に唇を重ねると、すずめは色が移ったと笑って正臣の唇を指でぬぐった。
すずめには、確かに自分しかいない。大学という外の世界に出ても、すずめには正臣しかいない。正臣にもすずめしかいない。
それが、これほど胸が苦しくなることなのだと正臣は知らなかった。愛しているという言葉がこれほど悲しい言葉なのだと、正臣は初めて知った。




