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Enosiophobia

 


 

 目が覚めると隣に正臣がいない。

 隣に手を伸ばすと温もりも消えていて、正臣がいなくなってから時間が経っていることが分かった。ベッドから体を起こし、周りを見る。カーテンはひかれているけれど、部屋は明るかった。

 今は何時だろう。

 この家には時計がない。だから、正臣が見せてくれる腕時計以外で時を知るすべが、すずめにはない。

 寝すぎたのか頭がぼんやりとする。小さく頭を振って、すずめはキッチンに向かい水を飲む。

 リビングのソファに、すずめの服がきちんと畳まれた状態で置かれていた。それを手に取って、すずめは今日が休日であることに気づいた。

 どうして、正臣がいないのか。

 嫌な予感で、心がちくちくとした。痛いわけではないけれど、騒がしいような感覚が体を支配する。

 白い細身のスカートに黒いノースリーブを身に付けて、すずめは廊下に出た。近づくことのできない玄関を遠目で確認すると、正臣の靴が綺麗にそろえて置かれている。その隣に見たことのない、踵の履きつぶされた靴があった。

 正臣が捨てた、すずめの靴に似ている量産品の汚れた靴だった。

 すずめは予感が当たったのだと泣きそうになって、目を閉じ深呼吸をした。

 すずめの願いは聞き入れられなかったのだ。一緒にいるために、やめてほしいという願いを正臣は無視した。正臣が罪を重ねる理由を、すずめは知らない。でも、きっと娯楽のためではないそれを、どうやって止めればいいか分からない。

 すずめは、地下へと続く扉をゆっくり持ち上げた。地下に行くことは怖かったはずなのに、今は怒りがすずめを動かしていた。

 階段を降りるとモノクロの映画が映っていた。薄着の女性が裸足で何かから逃げている。

 そのスクリーンを一部削るように影が映っていた。それは、ベッドの上で何かに馬乗りになっている正臣の影だった。

 足が震えて最後の一段がとても遠く感じる。少し寒いせいか、足に痛みが走った気がした。

 すずめが最後の一段を降りきった瞬間に、何かを両手で殴りつけていた影が止まる。




「……すずめ」

「正臣さん、どうして」




 どうして、こんなことをするの。どうして、やめてくれないの。

 ベッドに括りつけられている影が金切り声を上げたせいで、質問が途切れる。声の高さに驚いて、今度は影の形に、髪の長さにぎょっとする。

 女性だ。




「どうして」




 今度は、違う怒りに声が震える。ベッドから降りてすずめに近づいた正臣の腕を強くつかんだ。




「なんで、なんで。女の人は殺したことないって言ったじゃない!」




 正臣は確かに、女性は殺したことがないと言っていた。すずめが初めての女性であり、初めて生き残った人間だ。こんな女を殺すなら、すずめを初めてにしてほしい。はちゃめちゃに利己的で卑怯な嫉妬が、すずめの内側を侵していく。




「なんで、こんな女を殺すの!?」




 拳で正臣の胸を叩くが、正臣は痛みすら感じないロボットのようになんの反応も返さなかった。




「男しか殺さないって、理由があるんだと思ってた!正臣さんが、することには理由があるんだって!そう思って、やめてくれない理由にしてたのに!私のためでも、やめてくれないのには、理由があるんだって!」




 何度も何度も打ち付ける拳を正臣は止めない。




「こんなのただの殺人じゃない!」




 ドンっと胸に打ち付けた腕を、正臣が強い力で止めた。腕を握った手のひらの痕が付くのではないかと思うほどの強さに、一瞬すずめはたじろいだ。




「……私は、ただの殺人鬼ですよ、最初から」

「そんなこと……そんなことない!なら、どうして私を殺さないの?どうして、私だけ生かすの?私を大切にするの?」




 正臣が答えを返す前に、ベッドの柵に繋げられた手錠が力任せに引っ張られた音が響き、女の意味をなさない金切り声が響いた。正臣はすずめの腕を引っ張り、ベッドのそばに立たせる。




「この女の罪状は、幼い娘に十分な養育を与えず、身体的・精神的暴力を与えた暴行罪、傷害罪です。そのうえ、暴力を振るう父親のもとに娘を放棄し、自分だけ逃げた保護責任者遺棄罪もある。その父親が、娘を性的な目で見ていたことに気づきながら、保護者としての義務を放棄したのだから罪深い。娘がどんな苦しみの中に生きたのか、想像しなかったその罪は死に値すると思いませんか」




 すずめは自分の息が荒くなるのが分かった。耳元で水の中にあふれる泡のはじける音が聴こえる。




「父親は死んだけど、母親は罪を逃れていました。私が、罰を下します」

「そんな、そんなこと望んでない!お母さんは、悪くない!悪いのは、お父さんで!」

「言われたんじゃないですか?助けを求めた時、父親を誘うあばずれには罰が相応しいって。助けを求めるたびに、折檻されたはずだ」

「違う!違うの!あれは、私が、悪くて」

「悪い?そんなはずがない。守られるべき子どもが、両親からいわれない暴力を振るわれていただけです。罪人のくせにこの女、私のもとにすずめがいると知ったら金の無心に来たんですよ?」




 罪人じゃなかったら、何だというんでしょうね?そう言った正臣の拳から血が流れていた。顔が変わるほど殴られている女を母親だと認識できなくて、すずめは一歩足を引く。

 その動きに、反応するように女はすずめの方を向いた。その唇が動こうともがくのが、スローモーションのように見えた。

 聞きたくない。反射的に耳を塞ごうとした時、正臣が女を殴りつけた。




「お前みたいな穢れた女が、すずめの名前を口にするな!」




 もう一回、拳を振り上げたのを見て、すずめは正臣の腕に抱き着くようにして止める。




「やめて!」

「……どうしてですか?」

「お母さんを殴らないで!」

「……こんな女が大切ですか?こんな女が!」




 すずめの体を乱暴に引きはがす。その強さに、すずめは後ろに倒れてしりもちをついた。




「違う!違うの!こんな人、どうだっていい。私は、正臣さんが、大切だから!これ以上、罪を重ねてほしくない!」




 女に馬乗りになって殴ろうとする正臣に体当たりするように止めるけれど、また突き飛ばされて壁に背中を打ち付ける。痛みから、ひゅっと小さく息を吸い込んだ。




「好きだから!私は、正臣さんを愛してるから!だから、だから、これ以上、」

「……愛してる?」




 すずめは初めて自分の感情を口にした。傍にいたい。一緒にいたい。そう言いながら、2人は互いに禁じているように、その言葉を口にはしなかった。それは、その言葉が2人の関係を変えてしまうことが怖かったからだ。

 正臣は振り上げた拳を止めて、振り返った。そこに表情はない。




「また、媚びを売るんですか?」

「……え?」

「最初の時みたいに」




 すずめは、正臣の意外な反応に、言葉が出てこなかった。




「あなたは、生き残るために媚びを売りましたよね?今度は、こんなゴミのような母親のために媚びを売るんですか?私が、あなたの言いなりになると分かっていて?」

「……ちが、ちがう。私は、正臣さんのことを、」




 愛している、そう言葉が出る前に、正臣は拳をベッドの柵に強く打ち付けた。その音に、すずめは体をびくりと震わせた。




「その言葉を口にするな!生き残るために、私に媚びを売って!知っていますよね?あなたのその気持ちが病気であることも、なんと名前が付けられるかも。その気持ちは偽物なんですよ」

「違う。偽物なんかじゃない!私は、本当に、」

「……分かりますか?私の気持ちが?あなたのその紛い物の気持ちに振り回されて、あなたの言葉に喜んで。最悪ですよ。こんな気持ちになるのに、あなたのそれは、すべて生き残るためでしかないなんて」




 正臣が泣いている。

 影になって見えないはずなのに、すずめにはそう見えた。背中を打ち付けて動けなくなっていたが、無理やりに立ち上がる。正臣に両手を伸ばすと、反射なのか正臣はすずめを抱きしめた。すずめは自分から、正臣の唇に重ねるだけのキスをした。

 この気持ちが偽物なんかじゃないことを証明したかったが、キスではきっと有罪になってしまう。証明するために、すずめは同じ色を描かなければならないだろう。

 顔は原型をとどめていなくて、昔の母の面影も今は思い出せなかった。すずめを抱きしめてくれたことのない手が、今はすずめに助けを求めるように伸ばされている。父に殴られている母は、父の怒りの対象がすずめに移るとほっとした顔をしていた。殴られているすずめを、悪い子だと責めた。父の目線が恐ろしいことを告げれば、あばずれだと叩かれた。母はいつも洗濯道具ですずめを折檻した。

 叩いて抓って、男と逃げた。

 母は守ってくれなかった。正臣と違って、守ってはくれなかった。

 目の前で手を伸ばしているのは、本当に母なのだろうか。すずめの母は、男と逃げた瞬間に死んだのだ。いや、その前からいなかった。

 正臣を見上げると、無感情なその瞳がすずめを見つめ返していた。この人と一緒に生きるために、証明が必要ならば同じ色を描いてみせる。

 誰かの不幸の上で成り立つ秘密は、すずめのこの気持ちがまがい物などではないことを正臣に示してくれるはずだ。

 すずめは秘密をつくるために深く息を吸った。吐き出した息は、正臣の耳元で震えて懇願する。




「……もちろんです。すずめ」




 今度は正臣から重ねるだけのキスを貰う。大切なものを貰った気がして、すずめはこの夢の中だけで生きていたいと思った。すずめは正臣の足の下で悲鳴と懇願を繰り返す現実を見ないことにした。

 思い出そうとするたびに、母の懇願と叩かれた頬の熱さ、侮蔑の視線を思い出す。幼い頃のすずめが伸ばした手を、この人は決して握り返したりしなかった。だから、助けを求めるように伸ばされた手を、すずめは握り返さない。

 すずめの願いを、正臣は必ず叶えてしまうだろう。真実、すずめが望んでいることではないけれど、この願いは正臣とすずめに同じ色の夢を見せてくれるはずだ。

 2人の間に必要なのは秘密の共有だと思っていた。愛することとは、秘密を共有することなのかもしれない。だから、2人の間にあるものは、確かに愛なのだ。

 すずめは、女の悲鳴を聞きながら地上へとつながる階段を上がっていく。その声が、すずめの名前を形作ることは、正臣が決して許さないだろう。

 振り返ることなく地上への扉を開き、中庭の扉に向かう。初めて、大きなガラス窓を開いて中庭の玉砂利に一歩出る。

 白いスカートに赤茶色のしみが付いていることに気が付いた。乾いた血の色が、正臣とすずめの見ている世界の色なのだと思った。


 





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