Lepidopterophobia
ポニーテールに束ねていた長髪を右手で触る。駅前のチェーン店のカフェは、昼時を過ぎて人がまばらだった。自動ドアの向こう側に、モデルのようなスーツ姿の男が見えて、飯山明人は手を振った。
「明人、髪を切ったらどうですか?」
「目立ちます?願掛けなんだけど、困ったな」
「仕事に影響しそうです」
明人がA4サイズの封筒が手渡し、代わりに札束の入った封筒を手渡される。
「大丈夫ですよ。支障をきたしたことはないです、先輩」
飯山明人が探偵業を営むようになってすぐ、正臣は個人的に契約を結んでくれた。明人の営む探偵事務所で最も太い客は、大学時代同じサークルの先輩だった正臣だ。
「珍しいですよね。先輩が、女のこと調べろって言うの」
「明人、詮索はしない約束でしょう?」
明人は肩をすくませて、追及しないと意思表示をした。
「約束は守りますよ。一度調べた人間を二度は調べない。調べた結果は、警察にも言わない」
「ええ、頼みます」
中に入った資料を、わずかに取り出して、名前だけ確認する。これは、正臣のいつもの行動だった。
「重罪を犯した男ばかりだったから、てっきり諦めてないのかと思っていました。先輩は、姉さんのこと」
正臣は返事をせずに、コーヒーカップを手に取った。その所作が、映画のワンシーンのように見えるのはいつものことだ。正臣は、香りをかいで眉を寄せコーヒーに口をつけることなく、カップをソーサーに戻した。
調べ上げた人間が、どんな運命をたどるのか明人は知らない。正臣は調べ上げられた資料を見て、こいつでもない、あいつでもないと過去の犯人を捜し続けているのだと思っていた。
姉のことが無ければ、きっと、正臣も明人も違う人生を歩んでいたのだと思う。明人は探偵にならずに、家業をついで裕福な暮らしをしていただろうし、正臣と明人は雇用主と被雇用者の関係でもなかったはずだ。正臣が、過去に生きることもなかったはずだ。
だから、なんの犯罪歴もない女性を調べてほしいと言われた時、明人はやっと正臣が過去から抜け出せたのだと思った。
それは喜ばしいことでもあり、妬ましいことでもあった。正臣だけが未来を歩くことを許せないと思っていたが、同時に過去から抜け出してほしいと切に願ってもいたからだ。
「また、頼みます」
「こちらこそ、お願いしますよ、先輩。先輩だけなんですから、太客」
冗談めかして言うと、今度は正臣が肩をすくめた。その仕草が美しくて、また憎らしい。
「先輩」
歩き出した正臣に、明人は声をかけた。願掛けに伸ばした髪に指を絡めながら。
「もし、見つけたって言ったら、どうしますか?」
正臣はすぐに立ち止まる。振り返らない背中が何を思っているのか分からない。
もし、正臣の探している過去をとうの昔に見つけていると言ったら、どうなるだろうか。つい最近までの正臣は、歩くたびに誰かを切りつける機会を探している日本刀そのもののようだった。だから、その過去を渡してしまったら、正臣はおそらくどんな形であれ復讐を遂げるだろうと思った。でも、今の正臣は違う。何かを懸命に守ろうとして、そのために過去ではない場所を生きようとしている。
「どこに、いるんですか?」
だから、今の正臣なら大丈夫だと思ったのに。自分の読みは間違っていたのだと痛感させられた。
顔半分だけ振り返った正臣は、復讐を遂げることに何の迷いもない顔をしていたからだ。
「……もしも、ですよ。先輩」
「面白くない冗談ですね」
正臣は口角だけ上げる曖昧な微笑を浮かべて、今度は迷いなくカフェの出口に歩き出した。
その足が、どこに向かって歩いていくのだろうか。誰かと一緒に歩くことができるだろうか。明人は、正臣に同じ痛みを抱えるものとして同情し、親近感を抱き、どこかで同じだと感じていた。でも明人は同じ道を歩き、同じ場所に向かい、心中することは出来そうになかった。
この男は、誰と心中するのだろうか。過去とだろうか、それとも今とだろうか。
どちらにせよ、その隣が自分ではないことに感謝し、そして同時に嫉妬した。




