Optophobia
「正臣さん、これは?」
「ん?今日は、会議がありますからね。こっちにします」
朝から正臣が選んだ服に着替えて、ウォークインクローゼットでネクタイを選んだ。すずめが選んだネクタイを正臣がつけてくれたことはない。
「そうだ、すずめ。大学に戻りたいですか?」
ネクタイを締めながら、鏡越しに正臣とすずめは見つめ合った。正臣の言葉の音は聞き取れたのに、意味を聞き取れなくて首をかしげる。
「大学に戻りたいですか?心理学の本を気に入っているようですし、すずめは心理学部でしたよね?」
確かにすずめは、与えられた本の中で特に心理学の本をよく読んでいた。大学で専攻したのは心理学だったが、それは合格できる学部が心理学部だったという理由にすぎない。
「ぅん、でも、お金が」
「私が、払いますよ。すずめが戻りたいのなら、大学に戻ってもいい。ここから通うのが難しいのなら、都内のマンションに移ってもいいし、送迎を付けてもいい」
すずめは正臣の考えが分からなくて、反応をできずにいた。
ルールは二つ。一つ、玄関には近づかないこと。二つ、いい子であること。
正臣自身が作ったルールだというのに、正臣はそのルールをすずめに遵守させなくなった。殺人を目撃してしまったすずめを殺すこともできたのに、正臣はすずめを生かすことを選んだ。それは気まぐれだったはずだ。その気まぐれに、すずめは振り回されていたが気が付いた時には正臣も振り回されているように見えた。
「ここから出るの?」
「ええ。都内のマンションなら、私も通いやすくなりますからね」
「ここは?」
「もともと、土日に趣味で使っていただけですから。また、趣味の時間に、一人で来ますよ」
趣味の時間。それが、何をさすのか、すずめには分かった。すずめの知らないところで、正臣は罪を重ね、自分の信じる神になるつもりなのだ。
「ここから、出たくない」
「それなら、送迎を頼みましょう。田所という昔から篠山家に仕えてくれている信頼のできる男がいますから、」
「出たくない!」
この時間を失ったら、すずめと正臣の間にあるものを失ってしまう。愛情ともつかないこの感情は秘密を失ったら、きっと泡のように消えてなくなる。
「……すずめ?ここが気に入っているなら、ここから通えばいい。少し時間はとられますが、大学に通うことも難しくない」
秘密を失った時すずめと正臣の間にある、この名前のない感情は怪物に変わるだろう。変わった感情は、すべてを壊して消えて行ってしまう。
「私は、ここから出たくないの。だって、約束したじゃない」
「ルールは約束とは違います。約束を守るために、ルールを変えることもある」
「ずっと、一緒にいるために?」
自嘲気味に笑って、そう言ったすずめに正臣は驚いた顔をした。
「そうです。ずっと一緒にいるために」
正臣の表情に嘘はなかった。ずっと一緒にいるという呪いのような言葉は、すずめにとっては神聖な誓いの言葉だったけれど、正臣にとっては演者の台詞にすぎないのだと思っていた。でも、この表情を見せられると真実なのではないかと、どこかで期待してしまう。
期待することほど、愚かなことはない。
「すずめが大学に通っても、何も変わらないですよ。ここがいいなら、ここから通えばいい」
「なら、やめて」
「すずめ?」
すずめは、じっと正臣を見つめる。
「もう、やめて」
正臣は、すずめが何を言っているのか理解したようで、目をそらした。話は終わりだとスーツのジャケットに腕を通す。
「一緒にいたいなら、やめて!本当は分かっているんでしょ?二人でずっと一緒にいるためには、正臣さんがやめてくれないと」
「それは、できません」
「いつか、ばれる。日本の警察だって馬鹿じゃない。正臣さんが逮捕されたら、どんなに望んでも一緒にはいられないんだよ?」
姿見で服装を確認する正臣は、自分の姿かたちにさしたる興味もなさそうだった。ただ、そこに映る男に一瞥を送り、踵を返す。
「正臣さん!」
「すずめ、話は終わりです」
「私のためでも?私のためでも、やめてくれないの?」
すずめと正臣は、同じ秘密を抱えている。でも抱えた秘密の色は違う。同じものを抱えていたと信じていたけれど、それは違ったのだ。
長い毛足の絨毯に足を取られて転んだすずめを、正臣は振り返りもせずに玄関に向かった。すずめはギュッとスカートを握りしめて、涙を乱暴に拭った。
ルールは変えられる。そう正臣は言ったけれど、すずめの中のルールはまだ変わってなんていない。
そのルールを変えるとき、どんな道を歩いているのだろうか。その道は、正臣のものと交わっているのだろうか。
ともに歩く道が、すずめには想像できなかった。




