Philemaphobia
小さな鏡台が目の前にあった。小さなころには大きいと思っていたそれを、すずめは見下ろしていた。周りには、けばけばしい安物のドレスがかけられていた。鏡台が置いてある畳は脚に合わせて窪んでいる。
鏡台の前の椅子はピンク色だったけれど、乾いた血がところどころ付着している。
すずめは、はじめてそこに座る。
母がしていたように、口紅に手を伸ばして止まった。鏡越しに子どもと目線が合った。
「何見てるのよ!!」
次の瞬間、自分の唇から母の言葉が飛び出した。振り返って、子どもに手を振り上げる。泣きながら謝る子どもに、すずめは手をとめた。それは、小さなころのすずめによく似ていた。
物音ですずめは目を覚ました。先に寝ているよう言われて、すずめはベッドにもぐりこみ自分を守るように布団を頭まで被っていた。嫌な夢を見たことだけは思い出せたけれど、内容は思い出せない。
目を開けると、あたりはまだ暗い。また足音が大きく響いて、すずめは跳ね起きる。その姿勢で止まると争うような音が聴こえた。
まさか
唸るような声、どたばたと乱れる物音、ガラスが割れる音にすずめは迷うことなくベッドから立ち上がる。足音がしないようにスリッパを脱いで、裸足で歩き、音のするリビングの近くに向かう。
「正臣さん!」
廊下に立つ見たことのない男の足元に、正臣がうずくまっている。その腹めがけて、男が足を振り下ろした。
すずめの声に、反応して男が振り返った。暗闇なのに、その瞳がぎらぎらと光っているのが見えた。すずめを見た瞬間に、その瞳は弧を描いた。唇は正反対に歪み、まるでピエロの化粧を見ているようだ。
ぞくりとした。
正臣に初めて会ったあの地下での時よりも、体の芯をゆすぶられる恐怖だった。まるで悪魔のような父を見ているみたいだ。
「すずめ、逃げなさい!」
正臣の言葉に、止まっていた男とすずめの時間が動き出す。正臣が男の足を掴んだ隙に、すずめは玄関に走った。
玄関には近づけない。
すずめは、反射的にそう思って、キッチンのあるリビングダイニングに入って、扉を閉めた。鍵のついていない扉に意味はない。結局競り合いに負けて、開けられてしまう。
「すーずーめーちゃん?かわいーお名前だねー」
「来ないでっ」
「来ないでっ!ってかわいーねー。すずめちゃんは、どんな風に鳴くのかなー。楽しみだなー」
一歩下がると男は一歩近づく。
正臣はこの男の罪状を言っていた。女性をストーキングして家に押し入り、2-3日、女性を弄んで殺す。思い出すと血の気が引いて、手の力が抜けてくる。
すずめは、キッチンのシンクに追いつめられた。手をついた先に、ナイフブロックに刺さった包丁が見える。体は震えるくらい寒いのに、荒く吐き出される息はどうしてこんなに熱いのだろう。
すずめは包丁を手に取って構えた。
「そんなもの持って危ないよー」
「来ないで!」
「来ないで!」
男は、すずめの声真似をしてケタケタ笑っている。すずめは、包丁を威嚇するように振り回したけれど、男は笑っているばかりで一歩一歩踊りのステップを踏むように近づいてくる。
まるで草食動物を気まぐれに遊びで殺そうとしているライオンのようだ。
「っぁああああああ!」
すずめが、キッチンの隅に追い詰められた瞬間に、バリバリという雷が落ちるような音と共に男は咆哮を上げて倒れた。
「っ正臣さん」
合羽を着た正臣の唇からは鮮やかな血がこぼれていた。その手には、スタンガンが握られている。倒れた男の傍らに膝をつき、唇に手を伸ばし正臣は呼吸を確認していた。
ずっと一緒にいたい
すずめには目もくれない正臣を見て焦燥感を覚え、同時にすずめは、ただ一緒にいたいと思った。ただ一緒にいたいだけなのに、なぜそれがこんなにも難しいことだと感じるのだろうか。
包丁を握っている手に力が入る。
もし、ここですずめがこの男を殺したら、正臣と同じ色を見ることができるのだろうか。すずめが同じ色を望んだら、正臣はずっと一緒にいてくれるだろうか。
じっと包丁を見つめて、すずめはそれを振り上げることを選んだ。同じ色を見るために、この時間を終わらせないために、そのためにすずめには秘密の共有が必要なのだ。正臣がすずめを裏切れないように、すずめが正臣を裏切れないように、確かな共有が2人を繋いでくれるはずだ。
「っ!」
両ひざをついて、包丁をそのまま男に振り下ろすが、その手は強い手で止められた。その手は、すずめを傷つけたこともあったけれど、今はすずめに愛情を傾ける。その手を、すずめは失いたくなかった。
「離して!殺さないと!」
「すずめ、やめなさい」
「殺さないと!私が、」
私がやらないと、正臣さんとの間の絆を失ってしまう
そう言葉を続けたかったけれど、できなかった。正臣が手に力を込めたせいで、すずめは痛みを強く感じる。この手は、自分を傷つけたりしない。それだけは、絶対だと思うのに、その信頼すらぐらぐら揺れている。
こんなに容易に揺れてしまう信頼よりも、ずっと確かなものがすずめは欲しかった。
「すずめ、やめなさい。すずめは、私とは違う。その手を、血に染めてはいけない」
「私は、正臣さんと同じところに行きたい」
正臣の無表情な美しい顔が少しずつ、すずめに近づいた。反射的に目を閉じると、薄い唇の感触を、自分の唇に感じた。驚いて目を開けると、正臣はパッと離れる。
「そんなことを、すずめがする必要はない。私とすずめにはそんなもの必要ない」
手を離しなさい。
小さな声で懇願するように言われた。母が、父にしていた懇願とはまるで違った。すずめは、静かに包丁を正臣に手渡す。
正臣の口付けには何の意味もきっとない。自分の唇に人差し指で触れながら、すずめは小さく震えた。包丁を手放させるために、なんの意味もないキスをした正臣を、責めればいいのか、もう一度と乞えばいいのか分からない。
「ここの片づけを頼みます。やり方は分かりますね」
すずめは小さく頷く。男を引きずって地下に連れていく正臣を、それ以上引き留めることもせず、掃除道具を取りに行く。
男のいた痕跡を消すために、何度も床をこする。暗闇の中、ロボット掃除機も動かして塵一つ残らないように掃除した。大理石の床をシンナーの香りがする中、こすり続けると涙が出た。止まらない涙が、床を汚していく。2人だけのこの秘密は、すずめと正臣をどれだけ確かなものにしてくれるというのだろか。
その涙が誰にも見つけられないように、すずめは掃除をし続けた。1人だけのこの秘密は、すずめと正臣をどれだけ不確かなものにするだろうか。
すずめは、夜が明けるその時まで、秘密を消し去るために掃除を続けた。




