Poinephobia
すずめは、暖炉に薪を足すかどうか悩みながら炎が揺れているのを眺めていた。2月になると寒さが一層増す。床暖房はこの家を快適な温度に保つけれど、正臣は毎朝、必ず暖炉に火をつけるようになった。それは、ひと月ほど前に、すずめが少しだけ寒いと言ったからだ。それまでインテリアでしかなかったそれに買った薪をくべるようになった。すずめは、その暖炉に触れたことはない。正臣は、その暖炉にくべた薪が燃え尽きるまでに必ず帰ってくるからだ。
だというのに、今日は帰ってこない。炎を眺めていると、眠気に襲われる。正臣がいない時に眠ると、変な夢を見る気がする。だから眠らないようにしていたのに、炎を見ていると眠気が我慢できなくなった。
少しだけ。
そう言い訳しながら、近づきすぎると正臣が心配するから、少し距離を置いて暖炉の前で横になる。
夢を見ないほどの浅すぎるうとうとを繰り返していると、そのうち扉が閉まる音がして、すずめは目を開けた。
「正臣さん?」
音はしたはずなのに、すずめの問いかけに応えはない。目をこすって、暗い廊下に伸びをしながら出る。
「正臣さん?」
誰もいない。すずめは、廊下の電気をつけた。離れた位置から玄関を見ると、正臣の靴があった。
廊下の先で物音がした。すずめの体は、音に反射的に驚いて震える。
物置の扉が開いた。中から、出てきた人は目深に黒い雨合羽を被っている。あの地下で見た合羽は黒色だったのかと、心のどこかが場違いな感想を漏らす。
「……まさおみ、さん」
すずめの声は、先ほどまで寝ていたせいか掠れていた。
「すずめ、起きましたか?今日は、もう遅いですから、先に寝ていてください」
「いま、何時?」
「0時を過ぎていますよ。いつから、寝ていたんですか?」
いつもと同じような会話だった。正臣が合羽を着ていることを除いて、いつも通りだ。そのことが、すずめには怖かった。目の前にいる人は、サイコパスなのだと突き付けられている気がして怖かった。良心が欠如し、人の心や尊厳を平気で踏みにじる行為をしても心が動かない。表面的に愛想がよく、言葉が巧みで、外見が魅力的だとも、心理学の本には書かれていた。いつもの正臣は違っても、この合羽を身に付けている正臣はそれと全く同じだ。人の命を踏みにじっても心が動いているようには見えない。
「まさおみさんは?」
「私は、やるべきことがありますから」
「やるべきこと」
それがなんだか、すずめには分かる。分かるから、分かりたくなんてない。
「だから、先に寝ていてください」
「いや。一緒に寝て?お願い」
懇願するようにすずめが一歩近づくと、正臣は一歩下がった。
「寝ていてください。後から行きます」
「やだよ、やだ。お願い」
今、ここで止めたところで正臣は罰することを諦めてくれるわけじゃない。でも目の前で起こることを、すずめは止めたかった。
「やらなければならないんです。分かってください」
「わかんない!わかんないよ」
すずめは涙があふれたのを手で乱暴に拭った。いつもの正臣なら止める行為も、合羽を着た正臣は止めなかった。
「地下にいる男の名前は入谷尚之32歳。罪状は殺人。女性をストーキングして、家に押し入り、2-3日女性を犯していたぶってから刺し殺す。それも1回じゃない。4回も。そして、1回は子どもが眠る部屋の隣でその行為を行った。でも、結局、罪を免れた」
「どうして?」
「覚せい剤を使っていた知り合いに罪を擦り付けたからですよ。証拠を揃えておいてね」
「そんな、じゃあ、警察に言えば」
「警察があてになるなら、とっくにしていますよ。4人の罪のない女性を、自分の欲望のまま殺し、他人に罪を擦り付け罰から逃れた。死に、値するとは思いませんか?」
でも、それは、正臣さんがしなきゃいけないの?
小さく吐息とともに漏れた声に、正臣は答えを返さない。聞こえなかったのか、無視したのか、後者だということはなんとなく分かった。
法律は人が人を勝手に罰することがないように、人が勝手に神にならないように存在するものだ。人という不完全な生き物が、人という不完全な生き物を裁くために私情や利権を介在させないためにあるのが法律だ。でも、その法律は人が司るせいで時に過ちを犯す。その過ちは、往々にして正されることがない。正臣は、それを正そうとしている。それが、正義だと信じている。
それは、正義などではない。正臣は、神様にはなれないのだ。たとえ、それが正臣の信じる神だとしても。たとえ、それが、母を殺された子どもの神様だとしても。
正臣が静かに踵を返し、地下に続く階段を降りていく。すずめはそれ以上、何も言うことが出来なかった。




