Metathesiophobia
山本宗太は、頭のいい人間だと自分自身を思っていた。なんとなく受験してみたら国立大学の医学部に入れた。必死に勉強することなく過去問をなんとなく解いてテストに合格し、実験とレポートを地味な同級生に押し付け合格し、実習にもほとんど参加せず上級医に適当に胡麻をすって合格し、国家試験を過去問と直前講義で詰め込んだ知識で合格して医者になった。
初期研修医2年間は、働かなくても給料が貰える所謂ハイポな病院で過ごして、整形外科の医局に入った。そこで初めて奴隷のように働かされて、ある時、馬鹿らしくなって専門医を取る前に医局から脱獄した。そして、製薬会社で正統な給料でホワイトに働くようになった。同期はもっと安い給料で朝から晩まで手術をして、当直をして、翌日連続で働く非人道的な働き方をし続けている。働き方改革なんて、医療界には存在しない。
だから、宗太は賢いのだ。製薬会社では、4トントラックにひかれて体中の骨という骨を骨折し、大量出血して今にも死にそうな人間を12時間かけて手術する必要はない。勉強してもしてもしたりない知識と、私生活を削ってまで手に入れなければならない経験をもってしても、どうにもならなくて、自分自身の医師免許を叩きつけるようにベットする必要もない。
自分は賢い。だから、口を開かなければならない時を知っている。例えば、副作用の強すぎる薬が世に出そうになった時。篠山製薬は、会社自体が非常にクリーンなため、そんな場面に遭遇したことはいまだかつてない。
そして、口を閉ざさなければならない時を知っている。
例えば、社長秘書に直接呼ばれた時だ。長身で猫背な男についてくるように言われた時。その先に、男でも見とれるような顔をした男がいた時。それが社長だと知った時。そして、その社長の別荘に連れて行かれた時。そこに女がいた時。
「正臣さん、誰?」
北欧風の別荘に嫉妬したが、その中にいた女には失望した。正直に言えば、篠山製薬の社長であり、これだけの顔をしていたら、女は選び放題のはずだ。今、宗太の目の前に立っているのは、平凡を絵にかいたような女だった。
だが、宗太は賢い。口を閉ざすべき時を、ちゃんと知っている。
「うちの会社で雇っている医者です。何人かいるけれど、山本は整形外科医です。すずめの足を診てもらいましょう」
すずめと呼ばれた女は、首を横に振った。幼い動作に、なぜか苛立ちを感じる。
「平気。もう、痛くないもん」
「すずめ、診てもらうだけです」
嫌がる彼女を軽々抱き上げて、先に進む。一瞬、振り返って視線を投げられた。その目は、先ほど女に話しかけていた時のものとは全く別の命令することに慣れた目だった。ついていくと、これまた雑誌に載っていそうなリビングダイニングのソファに女が座らされていた。中産階級にすぎない山本の手には届かない家具が並び、そこに座る女の服もよくよく見たらハイブランドだった。静かな嫉妬を抱いていると、また、正臣に目線を向けられる。それも、口にするまでもない命令を、目だけでされているようだった。
「えっと、足の怪我ですか?」
膝をつくと両側足関節に包帯が巻かれていた。どうせ、大したものじゃないだろうと思って、包帯を取ると変形が見て取れた。まるで、包帯を取った足が纏足のような変形をしているかのように驚いて、バランスを崩す。小さく尻もちをついた。
変形性関節症は股関節や膝におきやすい、不可逆的な加齢や摩耗によるものだが、足関節にはおきにくい上に、これは明らかな外力によるものだった。すなわち外傷だ。それも、治療されていない。
普通ではない。
日本は国民皆保険制度だ。それが医療界をブラックにして疲弊させているが、一方、どれだけ困窮していても医療にアクセスできない人などほとんど存在しない。このハイブランドを身に付けている女が、そのほとんどいない一握りの困窮した人間には見えない。
「いつ、怪我を」
「2か月、いや3か月前くらいです」
普通ではない。この状態を放置し続けて、変形したまま固着してしまった足関節で生活するなんて正気の沙汰じゃない。痛みだって相当だ。なんせ足だ。絶対に荷重がかかる。
一瞬、携帯に手が伸びた。大学病院にいたころの名残が、宗太の体を勝手に動かしそうになった。これは間違いなく通報しなければならない案件だ。たとえ、この女性がハイブランドを身に付け、豪邸に何不自由なく生活しているように見えても、DV被害を受けているに違いない。
そこまで考えてから、理性で体を押しとどめた。
宗太は賢い。だから、口を閉ざすべき時を知っている。まして、DV被害には通報義務はない。そう務めるべきだという努力義務があるだけだ。
「これは、変形治癒の状態です。癒合が完璧にしているかは分からないけれど。手術を受けないと直せない。それも、高度な手術が必要です」
「手術を受ければ治るということですか?」
「100%とは言えないですが、変形治癒や難治性骨折を得意とする大学病院があります」
「紹介状を書けますか?」
「いらない」
正臣と宗太の会話に、女が小さく首を振った。
「すずめ?」
「いらない。病院には行きたくない」
「すずめ」
「行かない」
「書きなさい」
「行かないって!」
女は声を大きくした。それに対して正臣が暴力的な制裁を加えたり、プレッシャーを与えている様子がないことに、宗太は気づいた。足の傷は明らかな暴力だと思ったのに、2人の関係は足のケガと乖離するように見える。
紹介状を書くにしても、どうやってけがをしたのか聞くべきだが、宗太はそれをしようとは思わなかった。今の職場を追われたくない。今の環境を捨てたくない。この男が社長であるということを除いても、敵に回したくない。
「すずめ、貰っておくだけです。すずめが、行きたくなったら行けばいい。納得できるようになったら行けばいい。安心できたときに行けばいい。その時のためのものです」
女はギュッとスカートを握りしめた。そのしわを伸ばすためには、高級クリーニング店に出さなければならないだろう。その手を正臣が上から握った。
宗太は頭の中を駆け巡る情報を統合し、質問しようとする唇を懸命に閉ざした。自分は賢い。賢く生き残るために、聞いてはならないことがある。たとえ、彼女の足が明らかな外傷によるもの、それも、ハンマーの類による怪我であると推察されても、聞いてはならない。2人の関係に矛盾を感じても聞いてはならない。
幸せでいるためには、目をつむる必要があることもある。それがたとえ、誰かを不幸にする可能性があっても、宗太は賢いからゆえに自己中心的な自分を肯定できる。偽善で自分を不幸にするくらいなら、自己中心的に自分を幸せにしたい。
だから、目をつむる。自分は何も見ていない。自分は何も聞いていない。何も話すことはない。
それが最善であると、宗太は信じる。それが、誰かの最悪でも。




