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Melophobia

 



 すずめに与えられたものは、全部使われていない部屋に詰め込まれた。そこは、すずめの部屋だと言われて、家具が一式そろえられたけれどベッドだけはなかった。

 グランドピアノを一音だけ弾くと、音が部屋に響き渡る。正臣が弾くと美しい音を奏でるのに、すずめが弾くと音は不細工になる。

 すずめは自分の爪を見た。ピアノが届いた日に、正臣の足の間に座らされて、子どものように爪を切られた。切りそろえた爪をやすりで磨かれて、ピカピカにして正臣は満足そうに笑った。それから、爪を切りそろえるのも、正臣の仕事になった。




「正臣さん、このネクタイは?」

「ん?んー、ちょっと、うーん、こっちにしようかな?」

「ええ?なんで?」




 朝、正臣がすずめの服を選んでくれるから、代わりにネクタイを選ぶようになったけれど、正臣はすずめが選んだものをつけてくれない。朝からウォークインクローゼットで二人で並んで選ぶけど、いつも、困ったように笑って戻される。それが悔しいのに、やり取りが嬉しくて、すずめはいつも唇を尖らせる。

 今日の朝もそのやり取りをして、正臣を送り出した。この部屋を与えられるまでは、それから何もせず中庭をぼんやり眺めたり、廊下で横になったりするだけだった。今は、部屋で与えられたものを試しては、これは違う、あれも違うと物を放り投げて過ごす。

 放り投げられないグランドピアノだけが、部屋の真ん中で静かにしている。運んできた業者の後に現れた調律師に、どんな音がいいか聞かれて、すずめはすごく困った。ピアノの音ほど無縁な音は、すずめには存在しない。音楽なんてお腹の膨れないものに、すずめは夢を見たことはない。

 困ったように正臣を見ると、促すように頷かれた。正臣は、お腹の膨れないもので人生を満たすことのできる恵まれた人なのだ。自分とは、違う。すずめは、分かっていたはずなのに、それを強烈に思い知らされた。

 結局言われるがまま優しい音にしたけれど、すずめには、それが優しい音なのかも分からなかった。優しいピアノだから錆びたら可哀そうだと調律師に言われたから、すずめは毎日1音ずつ弾く。右から順番に、毎日1音ずつ。そのうち、右が高い音で左が低い音、音が7音ずつ繰り返されることに気づいた。この7音は、どこまでも低くなっていくように聞こえるけれど、いつか坂道を転げ落ちる石のように鍵盤の端で止まってしまう。

 その時、石が割れなければ、すずめはまた一から音を弾いていけばいい。でも、坂道を転げ落ちる石は、壊れなければ止まれないものだ。

 今日の音を弾き終えて、すずめはまた中庭を見るために廊下に移動する。その窓から入り込む光の中で、本を読むのが好きだった。太陽の光で照らされた白い紙が、すずめの目を焼くみたいにチカチカするのが、好きだった。




「マインド・ブライトネス」




 昨日読み始めた本を開く。しおりはないから、読んでいる中で覚えている単語を口の中で何度も繰り返しながら開く。




「マインド・ブライトネス」




 見つからないページをぺらぺらと捲ると、その音が部屋に響いた。すずめには、ピアノの音よりも、その音の方が優しく聞こえた。





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