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Apotemnophobia




 男の野太い悲鳴と、どこか懐かしいメロディの調子外れな鼻歌が聞こえて、すずめは目を覚ました。頬に冷たさを感じて、床に寝ていることが分かった。右目はなぜか開けづらくて、手を伸ばすと、液体が乾燥したようなパリパリした感覚が肌に触れた。近くでまた、男の悲鳴が聞こえた。体がびくっと震えて、足と地面がこすれると金属の音がした。足に鎖が巻かれていると分かって、すずめは絶望し、後悔が押し寄せた。体調を崩した自分を呪い、単位を落とした自分を呪い、お金のない自分を呪い、裏バイトを選んだ自分を呪う。見つかってはいけない気がして、自由な手でポケットの鍵を握り、床の端に掘られている溝に押し込んだ。それとほとんど同時に、ベッドで男に馬乗りになっていた影が、こちらを見た。




「目が、覚めましたか?」

「……っ」




 緊張のせいで、呼吸が荒くなる。影は大きくて、声からも男性だと分かった。越智が一瞬見せたモノクロの写真の男だろうか。




 「どうやって、家に入ったんでしょうか?」




 答えられずに息を荒げていると、髪を掴まれた。乱暴な所作に、すずめは一瞬抵抗したが、髪がブチブチと容赦なく抜かれて、力を抜いた。




 「どうやって、家に入りましたか?」

 「…へ、塀をのぼって、」

 「玄関は?」

 「あ、あいて、あいてました」

 「……開いていた?そうですか。鍵をかけ忘れたかな?」




 穏やかな口調で、話す男は、合羽を着ていた。その合羽は、どす黒い血を浴びていて、生臭い匂いを放っている。




 「まあ、オートロックなんですけどね」




 そう言いつつ、男は、ベッドの上の男のもとに戻りナイフを振り上げた。サクッと音が何度も聞こえて、ベッドの上の男が同時に悲鳴を上げた。すずめは胃から競りあがる吐き気に負けて、嘔吐する。達磨のような体型の男は、四肢があった頃、ぜいたくな暮らしをしていたのだろうと予想できた。半狂乱になって助けてくれと叫びながら、血を噴き出していた。




 「助けてくれ?あなたは、女性方の助けてという叫びを無視しましたよね?なら、報いを受けないと」




 モノクロの映画をバックに合羽の男は、微笑みを浮かべていた。暗くて見えづらいのに、その男の顔がとてつもなく整っていることが分かった。




 「それで、どうして、家に?」




 その質問が突如、自分に向けられたことを理解して、すずめは口をハクハクと開けたり閉めたりした。




 「私は、馬鹿が殺したいほど嫌いなんですよ」




 殺したいほど、それが、決して比喩じゃないと分かって、すずめは口の中の胃酸を無視して、慌てて言葉を選んだ。




 「おなかが……お腹が、すいて」

 「金目のものには、手をつけていなかったようですが」

 「た、たべものを」

 「……なるほど。そこの缶詰ですか」




 ベッドの男に、静かにするようジェスチャーをしてから、男はすずめのもとに向かってきた。その手には、刃渡りが恐ろしく長い包丁が握られている。すずめは唾を飲み込んで、震えながら壁のぎりぎりまで下がったが、それに意味はあまりなさそうだ。




 「私、女性を殺したことは、まだないんです。あなたは活きがよさそうですから、楽しめそうですね」

 「あ、あ、ゆる、許してください」

 「許す?何を?あなたも何か、罪を?」

 「見逃がしてくれたら、何も言いません!見たことも、聞いたことも、絶対に!お願いです!お願い、殺さないで!」

 「きゃんきゃん、よく吠えますね」




 血のこびりついた包丁が目の前にかざされて、すずめは震えを止められなくなった。




 「……許してください、お願いです」




 涙が止まらなくて、鼻水も、啜っても啜っても垂れてきた。それでも小さな声で、命乞いを続ける。




 「お願い、お願いです」




 髪を持たれて、ずりずりと引きずられる。ベッドの男の近くまで、連れていかれて、このまま殺されるのだと分かって、すずめは半狂乱に陥り、抵抗しながらも小さな声でお願いを続けた。




 「お願い、お願いです、助けて。……助けて、お兄ちゃん!」




 ぴたりと、男が止まった。垂れ流した鼻水が口に入って、塩気を感じた。




 「いいでしょう」

 「……ほ、ほんとうに?」

 「じゃあ、ルールを決めましょう。簡単なルールです。二つだけですから、あなたも守れるでしょう」

 「守ります!守りますから!」

 「一つ、玄関には近づかないこと」




 それは、ここから、出られないことを意味するのではないだろうか。すずめは嫌な予感から、だらだらと冷や汗をかいた。




 「二つ、いい子にすること」

 「いい子にします!いい子にしますから、帰して」




 唇に人差し指を当てて、しーっと子供に言い聞かせるように、息を吐き出された。それを、見て、すずめはすぐに声を飲み込んだ。




 「いい子は、大きな声を出しません。いい子は、帰してとは言いません」




 すずめはしゃくり上げて、それでも包丁が視界に入った瞬間に大きく二回頷いた。




 「そうです。いい子ですね」




 包丁が地面に落ちる音がして、すずめはほんの少し安堵したが、それも本当に数秒間だけだった。男が、今度は大きな金づちを握ったからだ。言いつけ通りに、大声は挙げなかったが、小さな悲鳴は上げてしまった。




 「じゃあ、手始めに、足を折りましょうね」

 「そ、そんな、いい子にします、いい子にしますから」

 「違いますよ。いい子になるために、必要なことだからです」

 「許して、許してください」

 「あなたは、許しを請うばかりで、譲歩しない」




 男は微笑むのをやめた。それを見て、機嫌を損ねたことが分かった。生きるために、足を差し出す。そもそも、足を差し出したところで、生き残れるかも分からないのに。すずめは、自分の両足を見て、そして、男を見上げた。男は、また、見惚れるような美しい微笑みを見せて、小さく呟いた。




 「いい子ですね」




 振り上げられた金槌が、振り下ろされるのがまるでスローモーションのように見えた。







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