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Oneirogmophobia

 


 

 父の顔が妙に蒼白く見えた。いつも怒りで染まっているか、酒で染まっているか、赤かったのに今は青く見える。

 水の中で揺れる体も同じだった。ぼろぼろのスウェットは、袖がびしょびしょになっている。手足は冷たいのに、頬は熱くて、自分がどこか高揚しているのに気づいた。

 もう父の口から罵倒の声が聞こえることもない。すべては泡になり、そしてその泡すらももう出てくることはない。そう思うと安心して、すずめは同時にとても恐ろしく思った。

 これでもう、父に殴り殺されるのではないかという恐怖と戦う必要なんてない。これでもう、父に犯されるのではないかという恐怖と戦う必要もない。

 なのに、すずめは怖くなった。これでもう、本当に、一人ぼっちだ。母も父もいない。頼れる親戚もいない。友人と言える人も、すずめの周りには誰一人いない。

 早く死んでほしいと願い続けていたのに、すずめは、この世に一人であることに恐怖を感じた。

 この人とも思えない怪物が、すずめの唯一の家族だという矛盾に、ずっとすずめは苦しみ続けてきた。その矛盾から、解放されるのだと思うと、気が楽になる。

 そして、すぐに浴室を出た。濡れた靴下が、廊下に足跡を作っていく。

 電話の呼び出し音が、遠くに聞こえる。




「こちら119番です。救急ですか、消防ですか」

「……父が、父が、浴槽に」

「落ち着いて下さい、浴槽で、倒れたんですか?」

「沈んでます」




 海の中は、冷たいのだろうか。父が沈んだぬるま湯よりも、ずっと、ずっと。見たことのない海を想像して、すずめは息苦しくなった。






「っぁ!」




 息苦しくて目が覚めて、すずめは飛び起きた。どこにいるのか分からなくて、すずめはあたりを見渡す。リビングのソファで眠ってしまっていたようだ。

 夢でも見ていたのだろうか、妙な汗が顎を伝った。手の甲でぬぐって、すずめは水を飲むために立ち上がる。飲み口の薄いグラスを、正臣が好んで使うが、すずめは口の中で割れてしまいそうで怖かった。そう話したら、正臣は少し厚いグラスをすずめのために買ってくれた。

 夢を見たのは、久しぶりな気がする。いつも、どんな夢か思い出せなかったけれど、飛び起きると汗をかいていることがよくあった。息を止めていたのだろう。いつも、息が苦しくなって飛び起きることになる。

 正臣と同じベッドで眠るようになってから、その変な夢も見なくなったのに、昼寝をしたせいだろうか。

 汗が張り付いて気持ちが悪くて、すずめは汗を流すことにした。シャワーを浴びて、着替えを終え濡れた髪をタオルで乱暴に拭く。ドライヤーで適当に乾かすが、正臣がしてくれるようには、うまくできない。

 熱を出した日から正臣は、すずめをより一層大切にするようになった。殴ることも、蹴ることも決してしなくなった。風呂に入れ、包帯を巻き、服を選び、食事を作り、すずめが眠るまで抱きしめて頭を撫でる。その手が、すずめに振り上げられることは決してない。

 あの日、地下に閉じ込められて、そのまま死ぬと思っていたのに正臣は結局、すずめを殺さなかった。

 完璧に掃除されているあの地下で、人が死んでいることを知っているのは、すずめだけなのに。

 すずめは、なぜ、生かされているのだろうか。なぜ、大切に扱われるのだろうか。

 その答えは、すずめには分からない。考えたくなかった。その答えが、すずめを傷つけるのではないかと思うからだ。

 半乾きのまま、すずめはリビングのソファに戻ったところで、扉が開く音が、いつもよりやや乱暴に聞こえた。




「すずめ」

「おかえりなさい、正臣さん」




 振り返るとソファ越しに、大量の紙袋を抱えた正臣が見えて、すずめは小首をかしげた。




「すずめ、着替えたんですか?」




 すずめの服は毎日、正臣が選ぶ。正臣はそれに強い拘りを持っているように見えた。




「うん、お昼寝したら、汗かいちゃったからシャワー浴びたの」

「一人で?」

「うん」

「足は大丈夫ですか?」




 正臣は、紙袋をほとんど投げ捨てるようにして、すずめが座るソファに近づき、傅いて足を取った。




「平気だったよ。もう、あんまり痛くないし」

「危ないから、1人で入っちゃだめですよ。すぐに包帯を巻きますから」




 もう腫れてもいない足だったけれど、前と形は違うように見えたし、痣の色は抜けきっていない。この足では走ることは、きっとできないだろうと思ったけれど、それが悲しいとは思わなかった。遠くに行けないことは、ここから出ていかなくていい言い訳になる気がしたからだ。




「ねえ、正臣さん。あれ、なに?」

「ああ、すずめのものをいくつか買って来たんです」

「私のもの?」




 包帯を綺麗に巻く正臣の顔は、惚れ惚れするほど美しかった。こんな綺麗で恵まれていて神様から愛されている人が、人を殺して、すずめを監禁して、そして大切にしている。それが時々、怖くなる。




「どうしたんですか?」

「ううん、正臣さんは、綺麗だなって」




 正臣は、きっと言われ慣れているだろうと思ったのに、意外にも照れた表情を浮かべた。その反応が新鮮で、少しドキッとする。




「何言っているんですか。すずめの方が、可愛くて綺麗ですよ」




 正臣の言う綺麗は、外見を指すものではないのだろうな。その時どうしてか、正臣は好きで人を殺しているのでは無いのではないかと思った。




「ほら、見てください」




 包帯を巻き終えて、正臣は紙袋の中身をどんどん広げていく。




「紙に筆、キャンバスに絵の具、布と糸と針、毛糸に編針、本も色んなものを、絵本、推理小説、経済、歴史、他にもいろいろ。それからグランドピアノも頼んでみました。明日、私がいる間に届くようにしました」

「え?」

「何が好きになるか分からないから、いろんなものを揃えてみたんです」

「どうして?」

「ここにいる間、退屈しないように」

「でも、私、絵も得意じゃないし手芸したことないし、ピアノなんて触ったこともない」

「だからですよ。だから、いろんなものに触れてください。気に入ったものだけ、やってみればいい」




 すずめは、どんどん広げられていくものに、気圧されて手を伸ばせずにいた。こんなもの、ずっと無縁だった。お金がないから、何も与えられなかったし、何も買えなかった。余裕がないから、食べていくことに役に立たないものは、ずっと排除されてきた。なのに、それを正臣から無条件で与えられると、嬉しいよりも戸惑いの方がずっと勝る。




「でも、」

「全部気に入らなくてもいい。そんなに警戒しないで、自由にやってみればいい」

「私、もう、今のままで十分なのに」




 すずめは自分の言葉に驚いて手で口を覆った。自分でも知らない本音が飛び出したかのようで、心が落ち着かない。正臣も、たぶんすずめと同じ顔をしていた。正臣のそんな表情は見たことがなかった。




「すずめ」




 向き合うように体を引っ張り、正臣はすずめの両手を、自分の両手で包み込んだ。




「ずっと、このままではいられない」

「え?」




 正臣の静かな声に、すずめは衝撃を受けた。ずっと、このままではいられない。確かに、正臣の言う通りだ。この生活は歪んでいるし、始まり方だって、正しくなんてない。正臣の気まぐれで始まったにすぎないし、なにより彼は人殺しだった。


 いつまでも、このままではいられない


 分かっていたのに、すずめはどこかで裏切られたと感じた。崖から突き落とされたような、息苦しさと痛みと悲しみと怒りが一瞬で頭の中をごちゃごちゃにしていった。




「違うよ、すずめ。ずっと一緒にいるためには、このままじゃダメだってことです。すずめも、生きるために、何かを始めないと。ずっと、一緒にいるために」

「ずっと……一緒?」

「そう。ずっと、一緒に。私は、そうなればと思います」

「本当に?約束してくれる?」

「ええ、もちろん。約束です」




 こんな約束に何の意味があるというのだろうか。すずめは、生まれて来てから誰とも約束なんてしたことはない。

 誰も約束なんて守らないことを、すずめは小さなころから突きつけられてきた。父は、何度も母に、もう殴らないと言っていた。いい妻であれば、もう殴らないと何度も約束していた。それが、守られたことなんて一度もなかった。

 約束なんて、何の意味もない。

 この約束だって、同じだ。ずっと一緒にいるために、しなきゃいけないことは、一つだけだ。それをしなければならないのは、すずめじゃない。いい妻でいることを、母に強要した父が変わらなきゃいけなかった。それと同じように、ずっと一緒にいるために、変わらなきゃいけないのは、すずめじゃない。正臣の方だ。

 だから、こんな約束、何の意味もない。

 それが分かっているのに、涙が出るほど嬉しいのは、どうしてだろうか。腕の中に抱きしめられると、ずっとここにいたいと思ってしまうのだ、どうしてだろうか。

 この心に、すずめは名前があることを知っている。その名前を、すずめはどうしても認めたくなかった。







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