Cherophobia
すずめは、正臣にお粥を要求するくらいには回復した。あの夜以来、すずめは正臣のベッドで一緒に休むようになった。あれほど手ひどく扱われたというのに、すずめはそれを当たり前のように享受する。
すずめの中にある感情を正臣は最初、理解していた。それが精神医学的になんと呼ばれるか、簡単に分かった。でも今は、すずめの中にある正臣への感情をはかりかねている。そして自分自身がすずめに向ける感情も。分からない感情に引きずられて、正臣はすずめを意味なく罰するのをやめた。
それが2人にとって、正しい感情なのか分からない。
「社長?」
志筑が、近い距離間で覗き込んでくる。赤いルージュと、ムスクの香りに意識が社長室に戻る。
「どうしました?」
「いいえ、社長が、ぼんやりされていたから」
「お疲れですか?コーヒーをお持ちしましたから、少し休みましょう」
ちょうど長身の由利直樹が、コーヒーを持って現れた。人好きするような微笑が正臣は気に入っていたが、志筑は由利を嫌っていた。
正臣が信頼を置く割に由利は大きな功績もなく、仕事はよく言えば丁寧、悪く言えば遅くて凡庸だからだ。
「社長は、なんだか、最近ご機嫌ですね」
由利の煎れるコーヒーの味は、とても柔らかくて香り高い。
「最近、猫を飼ったんです」
「ええ!猫ちゃんですか!種類は?お名前は?お写真ありますか?」
急に前のめりになった由利に、志筑は嫌な顔を隠さない。
「野良猫なもので、種類は分からないんです。写真嫌いで、撮らせてくれなくて」
明らかに見せてほしいという顔をしていた由利は、さまよわせていた手を膝に戻した。
「社長、らしくないですね。野良猫なんて、飼うなんて」
志筑は猫なで声で、正臣に尻尾を振るくせに、猫は嫌いなようだ。
「じゃあ、あのタワマンに、猫ちゃんグッズがたくさん置いてあるんですか?キャットタワーとか」
「え?」
「猫ちゃんの遊び道具とか」
「……えっと」
正臣の反応に、由利は明らかに呆れた表情を見せた。仮にも上司に見せる顔ではない。
「猫の遊び道具……それは、思いつきませんでした」
「猫ちゃんは、社長が働いている間、お家にずっといるんですよ。遊び道具がないと、ストレスが溜まっちゃうでしょう?あ、もちろん、家飼いですよね!?お外は、危険がいっぱいなんですからね!?」
「え、ええ、もちろん外は危ないですから。……確かに、おもちゃを買ってあげればよかったんですね」
由利は、全くもう!と言ってから、スマホでキャットタワーやおすすめのおもちゃの類を熱心に見せてきた。
「社長は、猫ちゃん初心者ですね。でも、一度飼ったなら、ちゃんと責任を持たないと」
「もちろんです!」
少し声が大きくなったことに、由利も、黙って聞いていた志筑も驚いた顔をした。どんな時でも、声を大きくしない正臣が珍しく声を荒げたからだ。
「この子の残りの人生に悲しいことも辛いこともなくて、ただ幸せでいられるように、守ってあげたいと思っています」
正臣はいい人に見せるためでもなく、相手を操るためでもなく、ただ純粋にそう言葉にした。理由は分からなかったけれど、自然と微笑みが浮かぶ。
それを見て、志筑だけじゃなく、由利まで顔を赤くしていた。
正臣は小さく首を傾げて、何を買って帰ろうかと想像する。その想像だけで、正臣は胸が温かくなるのを感じた。




