Eisoptrophobia
あの屋敷に戻るまでの間、すずめは、逃げ出したい気持ちと、早く帰りたいという気持ちに挟まれて、どうしていいか分からなかった。逃げたいはずなのに、居心地の悪いデパートから早くあの家に帰りたい。
「すずめ、着きましたよ」
助手席でいつの間にかうとうと眠っていたようで、正臣に揺り起こされた。すずめは、眠気に負けて、起こされても浅い眠りに落ちようとしてしまう。
「すずめ」
また、呼びかけられたが、正臣は諦めたようで、運転席から降りた。トランクを開けた音がしたけれど、すずめは、重い瞼を開けられない。しばらくして、助手席のドアが開けられて、すずめはふわりと抱き上げられた。
小説の中の子どもは、眠ると父親がこうして抱き上げてくれていた。
すずめの記憶には、一度としてない優しい思い出が、正臣に与えられている気がする。
「すずめ、お風呂には入りましょう。寝ててもいいから」
すずめは無防備な自分自身に驚き、同時に、これは抵抗する気力がなくなったのだと自分自身に言い訳をした。服を脱がされ、高そうな乳白色の入浴剤の入った浴槽に入れられる。いつもは一人で入って、高級そうなYシャツもスラックスも、遠慮なくたくし上げた正臣が世話をしてくれるが、今日は違った。ぼんやりと、浴槽の水面を眺めていると、正臣がおもむろに服を脱ぐ。
すずめは一瞬たじろいで、身を縮ませたが、すぐに正臣の貧相な体に欲情したりしないという言葉を思い出した。正臣は、暴力的で、支配的であったが、すずめに嘘をついたことはなかった。すずめの背中と浴槽の間に、正臣が体を滑り込ませる。正臣のお腹に背中が当たった。筋肉質な恵まれた体の強さに、不思議とすずめは恐れもそのほかの何も感じなかった。
「すずめ、寝てもいいですよ」
なぜ、この男はすずめに親切にするのだろうか。生きていて、今まで、誰もすずめに親切にしたことはなかった。暴力をふるいすずめをサンドバッグにしていた父も、一緒にサンドバッグにされていた母も、周りにいた大人も、そして、すずめのことを視界に入れることさえしなかった同級生も全員、誰もすずめを人として扱ったりしなかった。
「眠くないもん」
この男だけがすずめを人として扱う。それが、幻想であっても、どうしてか、それに縋ってしまいたくなる。この男が、人として間違っていることも分かっていた。この男の親切が、決して純粋なものでないことも分かっているはずなのに、すずめはどうして、こんなに心を乱しているのだろうか。
「すずめ、小さいころのことを教えてください」
背中をすっと撫でられて、すずめはびくりと震えた。自分の背中を見たことはないが、そこに深い傷があることは知っていた。傷跡をなぞる正臣が、何を求めているのか、すずめには分からなかった。
正臣は、すずめの命を握っている。ほかの人と同じように苦しめて殺すことが出来る。正臣は、すずめが裁くにふさわしい人間か、きっと、罪を探しているのだ。地下に閉じ込められた罪人たちと同じように。
「小さいころのこと、あんまり覚えてないの。じめじめした畳がほっぺに当たると、気持ち悪くて、かび臭かったのは覚えてる」
忘れたふりをするのは、罪を口にしないためだった。
「お母さまは、どんな方でしたか?」
「鏡台の前の小さな椅子に、いつも座って、お化粧をしてた。痣を隠すために、顔を真っ白に塗ってたの」
「すずめは?」
「お母さんがお化粧している時は、見ちゃいけなかったの。見てると叩かれるから」
すずめは、母のことを思い出した。声は思い出せなかった。いつも、叫ぶか、懇願していたことは覚えている。あの村には似合わない厚化粧をして、いつも後ろ指をさされていた。あんなに支配されていたのに、いつの間にか、つくっていた男と逃げた。その時、はじめて、母は支配されていたのではなく、支配されたフリをしていたのだと気づいた。
すずめも、そうだ。母の娘なのだから。
「会いたいですか」
すずめは、正臣の質問に眠ったふりをして答えなかった。会いたいのか、会いたくないのか、すずめにも分からない。厚化粧の母が手を握ってくれたこともある。でも、その手が振り下ろされた時もある。暴力で支配されていた母に、すずめは、いまさら何も言えない。悪いのは、父で、母じゃない。大人になって、それだけは分かったけれど、置いていかれた事実は変えられない。
いつの間にか、本当に眠ってしまっていたようで、台所の床にゆっくり降ろされて、一瞬目を覚ました。
もし、会いたいと言ったら、どうなっていたのだろうか。
柔らかいブランケットに包まれながら、すずめは小さなころの夢を見ないためにギュッと瞼を閉じた。




