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Nomatophobia

 





「正臣、さん」




 大理石で出来た大きなデパートの玄関に、正臣が車を停めると、当たり前のように外から扉が開かれる。すぐそばで並んで駐車場に入ろうとしている列と、まるで違った。エスコートのために、すずめに伸ばされた手に、思わず手を乗せてしまったが、立ち上がることもできず、困り果てたところで、彼が抱き上げてくれた。

 すぐに、車椅子が運ばれてきて、乗せられる。従業員と思しき人が、車椅子を押そうとしたが、彼がそれを断ってしまった。彼の力強い手で、車椅子を押されるとそこはかとない不安感を覚えた。




「正臣さん」




 先ほど、教えられた名前をもう一度呼ぶが、彼が、足を止めることはない。




「篠山様、よくお越しくださいました」

「ああ、新見さん、出迎えありがとう。頼んでおいたものは?」

「お部屋に用意してございます。そちらが?」

「ええ。交通事故にあって、足が不自由ですから配慮を」

「もちろんでございます」




 すずめは、交通事故にあったことになっているようだ。従業員は疑問に思っていないのか、正臣に営業用の笑みを浮かべている。すずめでも知っているような有名な高級デパートで、恐らくは特別な扱いを受けている正臣は、すずめが想像していたよりも、ずっと社会的地位が高いのだろう。

 今、たとえ、すずめが助けを求めたとして、この人たちは、助けてくれるだろうか。信じてくれるだろうか。

 もし、信じてくれたら、すずめは逃げ出すことが出来る。

 もし、信じてくれなかったら、すずめは今よりもずっと酷い扱いを受けることになる。いい子にしてないと、殺されてしまう。

 でも、もし、警察を呼んでくれたら。




「すずめ?」

「っ、」




 慌てて顔を上げると、正臣が後ろから覗き込んでいた。悟られたかもしれないと、汗が背中を伝う。




「外商に服と靴、あとは必要そうなものを用意させました。私は、そこにいますから、好きなものを選びなさい」




 ラグジュアリーな赤を基調とした部屋に通されて、正臣は洋館にあるような文机に腰を掛けた。新見と呼ばれた男が、正臣にティーカップを手渡している。正臣は微笑みを浮かべたが、普段の彼は、いつもコーヒーを飲んでいた。




「お嬢様、こちらに」




 フィッティングを手伝うためか、2人の若い女性が、すずめに近づいた。もう1人の年嵩の女性は、一歩引いて服と靴を並べている。どれも、すずめが一生涯手にすることのないような服だった。




「どちらが、よろしいでしょうか」




 綺麗な顔立ちの女性が無表情に、すずめに服を選ぶよう促した。可愛らしい顔立ちの女性は笑顔で、すずめに白のトレーナーを見せる。




「こちらなんて、いかがでしょうか。ご試着が必要ならば、お手伝いいたします」




 もし、すずめが、2人に今の状況を話したら、どうなるだろうか。殺人鬼と暮らしていて、逃げ出したいけど、閉じ込められている。そこまで、考えて、すずめはふと、自分が閉じ込められていないことに気づいた。

 すずめは、いつでも逃げられる。逃げられないと思って、自ら羽をもいでしまっただけで。




「あの、私、」

「靴のフィッティングも致しましょう」




 腫れて足が入らなくなったせいで、踵を履きつぶしている汚いスニーカーを、笑顔の女性が乱暴に触れた。その顔は笑顔なのに、一瞬歪んで見えた。




「っ!」




 痛みに呻いたが、声を出さないために、反射的に口を手で覆う。


 これは、嫉妬だ。


 女性の嫉妬だった。哀れなすずめには、今まで、一度も向けられなかった女の嫉妬は、鈍らの刃物のようだ。ずきずきと足が痛むと同時に、すずめは言いようのない感情にさらされた。

 それは、怒り。誰も相手にしなかったすずめを、正臣という男を通して見ているこの女性に対する怒り。監禁され殺人を見せられ、暴力にさらされたすずめに気づきもしない女性に対する怒り。

 そして、それは、優越感と混ざり合いぐちゃぐちゃなるような、感情だった。




「すずめ!」




 先ほどまで離れて紅茶を口にしていた正臣が、女性を押し退けて、すずめの前に傅いていた。




「大丈夫ですか?」

「篠山様、申し訳ございません」




 新見が、正臣に頭を下げている。すずめが痛がっているのを見て、同じように、女性たちも頭を下げる。




「……大丈夫、です。痛くて、驚いただけ」

「新見さん、私は、配慮をと言ったはずです」




 歪んだ微笑みを見せていた愛らしい女性は、顔色を青くして一歩下がった。年嵩の女性が目線で指示を出して、無表情の美しい女性が前に出る。




「お嬢様、私が、お手伝いいたします。どのお洋服にいたしましょう」




 すずめに見やすいように、車椅子の高さに並べられた服に、視線を合わせても選ぶことは難しかった。視線を泳がせていると、正臣が立ち上がる。




「どれも気に入りませんか?」




 正臣の微笑みが消えたのが見えて、すずめは懸命に首を横に振った。言葉を選ばなければ、怒りを買ってしまう。すずめは懸命に考える。初めて言葉を選んだ時、媚びることを覚えたと言われたが、その時から、正臣の態度は明らかに変わった。




「正臣さんが、選んで」

「どうして?」

「私に、似合うもの、正臣さんが選んで」




 正臣は一瞬だけ、すずめと見つめ合って、そしてふと微笑みを浮かべた。すずめは正しい答えを選べたのだ。間違えれば、きっと殴られるか、蹴られるか、浴槽に顔を沈められるかしていたはずだ。




「分かりました」




 浴槽に沈められることが、すずめには一番恐ろしかった。もし、すずめが父親と同じ死に方をしたら、父親と同じ場所に行くことになる。父はたぶん、そこで、すずめを待っているはずだ。あの酒のせいで澱んだ瞳で、すずめを探しているはずだ。それが、すずめには恐ろしくて堪らなかった。








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