Ambulophobia
アイランドキッチンに座らせた彼女が、ピーピー泣いている。
正臣は彼女を立たせようと、ゆっくり誘導するが、何度やっても、足が地面につく前に、正臣の首に手を回して拒んでしまう。足を折って、そう日が経っていないので、それも致し方ないことではあるが、何度も同じことの繰り返しで、正臣は舌打ちをした。
彼女は、正臣の舌打ちを怖がる。
正臣自身も、悪い癖だとは思っているが、なかなかやめられないでいた。会社では極力しないようにしているが、プライベートな空間では、制御が難しいこともある。
「ほら、大丈夫ですから」
「こわ、こわい、むり」
ぐずぐずと泣きながら、正臣の首に縋りつく。彼女は不思議な生き物だった。この状況に陥ったのは、正臣のせいだというのに、正臣に命を握られながら、正臣に縋りつく。愚かで、可哀そうでありながら、とても賢い。
正臣に親しみを抱き始めているのか、彼女は、敬語をあまり使わなくなった。こんな風に甘えるようになったし、食事や水を与えられることも、包帯をかえてもらうことも、風呂の世話をされることも当たり前のように思い始めている。
正臣は、彼女のこの状況を、精神学的になんと呼ぶか察しがついていた。
「いい加減にしなさい。いつまで、こうしているつもりですか?」
「ごめ、ごめんなさい、でも、でも、怖い、怖いの」
腕を強い力で引き離すと、彼女はわずかに怖がった。時折、忘れないように、正臣は、彼女に暴力をふるった。最初ほどではないが、顔をぶったり、蹴ったり、溺れる寸前まで沈めたりすることが多かった。その、気まぐれな暴力の中で特に風呂で溺れることを、彼女は殊更に怖がる。
「これでは、いつまでも出かけられない」
正臣が、彼女の支配を、緩めたのには理由があった。最初に、絶対的な暴力と精神的な支配で、彼女は、もう鎖が無くても部屋を出ようとしない。玄関で、泣いていた時から、彼女は正常な判断が困難になっていることが察せられた。最初は、理由を見つけて、殺すつもりだったが、彼女は、思った以上に、易く支配された。
易く支配されているが、芯の強さに変わりはない。目の奥の光が消えることはなかったし、恐らく、自分の生を諦めていない。その美しさに、正臣は感嘆していた。
だから、あの3度もひき逃げ殺人を犯しておきながら、正当に裁かれなかった男が暴れて、地下に落ちた時、真実心配したのだ。こんな穢れた人間のために、彼女が怪我でもしたら、やるせない。
深くため息をつくと、今度こそ、彼女が自分からアイランドキッチンを降りようとした。正臣のため息も、彼女が怖がるものの一つだった。目をギュッと閉じて、そのまま、飛び降りようとしたが、結局、また、正臣に縋りついた。
「……やる気、ありますか?」
「痛くて、怖くて」
正臣を泣きそうな目で、見上げる。媚びるような上目遣いは、正臣がよく女性にされるものだったが、彼女のそれは、あまり不快ではなかった。
「抱っこ、じゃ、だめですか?」
「私に、デパートの中を、ずっと、抱っこで移動させる気ですか?」
彼女は、デパートという言葉に驚いたのか、目を見張った。ここから、出されると思っていなかったようだ。彼女の服や下着は、正臣が普段使わないファストファッションのものだった。手っ取り早く手に入る上に、足が付きにくいものを現金で購入したが、彼女をしばらく生かすにあたって、服や靴、他のものもそろえる必要が出てくる。
それだったら、普段使っている口の堅い外商を使った方が、足が付きにくいだろうと考えたのだ。幸い、彼女を探している人間はいないのだから。
正臣が、彼女を無視して踵を返すと、彼女が小さく泣きながら、謝罪を始めた。いい子にすることを約束してから、彼女はよっぽどのことがない限り、大きな声を上げない。謝るときも小さな声で、泣くときもすすり泣くようになった。車を用意し、戻ると、アイランドキッチンから落ちたような姿勢で、座り込んでいる彼女がいた。一見、けがはなさそうだったが、子どものように鼻水を啜りながら、泣いている。
「何しているんですか」
「立てなくて、ごめんなさい」
「もう、いいですよ。車いすを借りましょう。そこまでは、抱っこで行けばいいですから」
正臣が、無理に立たせようと試みたのも、医者の介入が必要か判断するためだった。正臣に、医学知識はない。足を折ったのは、気まぐれだったが、恐らく今後、彼女は不自由な生活を送ることになるだろう。病院に連れて行ってやることはできないが、篠山製薬のお抱え医者に金を握らせて、診察をさせることはできる。そこまでしてやる価値が彼女にあるかは分からなかったが。
抱き上げて、車に乗せる。車高の低い外車は、思いの外、介助が難しかった。シートベルトまで、正臣が留めて、運転席に乗り込む。
「少し、遠いですが、東京まで行きますよ」
「……うん」
「なんと呼びましょうか?」
正臣の言葉に、彼女はびっくりしたように顔を上げた。監禁されている人間とは思えないほど、清潔に管理されているが、何かおかしいと周囲に思わせてしまう程度には、怯えられてしまう。どう、誤魔化すか、考えるのが面倒だった。
「あなたの、名前ですよ。外で、さすがに、名前を呼ばなかったらおかしいでしょう?」
「……すずめ」
「すずめ?そう呼べばいいですか?」
市瀬すずめ、戸籍上の今野すずめは、父が死んだあとは、母方の名字を名乗っていた。正臣に偽名を教えないところを見ると、彼女の目的は本当に食料だったのかとも思わなくもない。正臣の行動を怪しんで証拠をつかむために、侵入した可能性をずっと考えていたが、ただの休学中の女子大生に、そんな意図があるとも思えない。
彼女が、困窮していたことは調べがついていたし、着ていた服からも察しはついた。
高校卒業間近に死んだ父親と、すずめを置いて男と蒸発した母親。恐らく虐待を受けて育ったであろう、すずめのことを閉鎖的な村人たちは、父親殺しのあばずれと呼んでいた。
風呂に入れてやれば、体に染みついた傷の痕が、数えきれないぐらい見えたし、幼いころからろくに食べていないのだろうと分かった。
もし父親が生きていたら、正当に裁かれるべきだと正臣も思うことだろう。そして、もし、村人たちの言うことが正しいのであれば、すずめは、正臣と同じ側の人間ということだ。
赤信号で止まった瞬間に、すずめをちらりと見る。すずめはエンジンの振動に慣れないのか、居心地悪そうに体を縮こまらせていた。すずめのために、国産車を買おうかと考えてから、自分の思考に眉間にしわを寄せる。すずめは、そんな正臣を見て恐れるように、へたくそに微笑んだ。




