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Dikephobia

 

 秋とはいえ、上り坂をあがっていると、汗がにじんだ。薄手のニットのセーターの中は、わずかに湿っている。薄暗いと思うほど、木々がうっそうと茂っているが、それでも暑くて水が欲しくなった。

 高台の家、そう言われて歩いて上ってきたが、高台というよりは、緩やかな山のようだ。うっそうと茂る森の中の、大きな家を目指して、市瀬すずめは黙々と歩いていた。

 都内から少し離れた別荘地で、資産家たちの豪勢な別宅が並んでいる。すずめは、そこに、場違いであることを理解していた。

 この森は、生まれた土地を思い出すが、並ぶ家々は、それをすぐに否定する。豊かではなかった村は閉鎖的で、決して居心地のいい場所ではなかった。大学進学と同時に上京し、母の旧姓を名乗るようになったが、字画が悪いのだろうか、運には恵まれなかった。父方の姓を名乗っていた時も、決して運が良かったとは言えないが、上京してからは神にも仏にも見放された気分になる。

 そうでなければ、こんな、怪しいバイトに手を出すことにもならなかったのだ。生活費を捻出するために始めたアルバイトで体調を崩し、3年生で単位を落とした。奨学金を打ち切られて、学費は未納が続いた。退学の勧告を受けて休学を選択したが、生活費だけで精いっぱいで、学費はなかなか貯まらない。卒業見込みのない学生が、安いリクルートスーツで、どんなに靴底をすり減らしても、就職先が見つかるはずもない。親を持たないすずめに、世界は決して優しくはない。

 ジャーナリストと名乗った男に渡された鍵をギュッと握りしめる。大衆で目を引くセンセーショナルな記事を書くフリージャーナリストだという男の名刺を、すずめは就職活動でするように丁寧に受け取った。越智という珍しい名字だったが、顔はよく思い出せない。インターネットで見つけた求人には、日給25万円とだけ書かれていて、決して合法的で健全なアルバイトではないことは分かっていた。昼間だというのに照明の暗い喫茶店で、渡されたのは名刺と鍵、そして住所、前払いの10万円だった。家主の男の写真を、一瞬見せられたが、モノクロで、顔を認識する前に必要ないからと回収された。




 「この住所の家に行き、鍵を開けて中に入ったら、地下室を探せ。見つけたら、中で写真を撮り、家主に見つからずに帰ってこい。そうしたら、残りの15万円をここで渡す」

 「それって、不法……」

 「平日の日中、その家は無人になる。警備会社と契約もしていないから、恐らくばれない。心配なら顔を隠しておけ」




 あまり見ないデザインの鍵を手に取ると、男はわずかに顔を上げた。




 「鍵は定期的に取り換えられる。これは複製が困難と言われる種類の鍵だが、抜け道がないわけじゃない」




 その鍵自体も、合法的に手にいられたものではないことが、分かって、すずめは断ろうと思った。合法的で健全なアルバイトではないことは、最初から分かっていたが、危険な香りがしたからだ。でも、目の前に置かれた茶色の封筒の中身が、どうしても、すずめには必要だった。生きるためには、お金が必要で、お金を得るためにはリスクを侵さなくてはならない。




 「こういうバイトは初めてか」




 越智は、疑問形でありながら、断定的なイントネーションで、すずめに尋ねた。小さく頷くと、越智はため息をつく。




 「簡単なルールを教えてやる。詮索するな、得ようとするな、余計なことをするな、多くを語るな。今後も、今と同じ生活を送りたいなら、それを守れ」




 すずめは、坂を上りながら、小さな声で何度も繰り返した。

 

 詮索するな、得ようとするな、余計なことをするな、多くを語るな。

 

 じわりと滲んだ汗は、手のひらの鍵を滑らせる。ポケットの中で、何度も握っては離している鍵は、汗がまとわりついていた。目的の家は、鬱蒼と茂る森の中、石造りの壁で覆われていて、中はよく見えなかったが、坂の途中に時折見えた別荘のどれよりも大きく感じられた。壁をよじ登って、中に侵入する。監視カメラはどれもフェイクだと、越智は言っていたが、顔はマスクで隠した。庭は整備されていて、ほとんど雑草はなく、芝生が短く切りそろえられている。石畳に続いて、近代的な大きな家が見えた。平屋の家は、無機質な印象だったが、扉や装飾は木が使われていて、北欧の近代アートを見ているような気になった。すずめはもう一度、詮索するな、得ようとするな、余計なことをするな、多くを語るな、そう繰り返して、木の扉に近づいた。

 玄関だけで生活できそうなほど広くて、すずめは居心地が悪くなった。全身が心臓になってしまったかのようにドキドキする体を無視して、靴を端にそろえると、履き古したスニーカーの汚さにげんなりする。

 開いてくれるなと祈った鍵は、開いてしまった。入り込んだ家の中は、白とメタリック、それに木で統一されていて、お金持ちの匂いがした。家と呼ぶのも、なんだか可笑しく思えた。どこまでも続く気がする廊下の先に、窓が見える。引き寄せられるように進むと、そこだけ急に明るくなった。一本だけ松が植えられている中庭だ。そこに進むまでに、いくつか扉があったが、すずめはその中庭に夢中になる。

 詮索するな、得ようとするな、余計なことをするな、多くを語るな

 それを思い出して、中庭から離れる。触れてしまった窓ガラスを、着古したニットの袖で、こすっておいた。すずめが探さなければならないのは、地下への入り口だ。手袋を持ち込むことを失念していたすずめは、伸びきったニットの袖で、指先を覆い、あちこちの扉を開いて回ることにした。広いリビングダイニングは、これまた大きな窓があり、高そうなカウチが並んでいた。木のローテーブルも、不必要に大きく感じる。キッチンは黒を基調としていて、大理石でできたアイランドは光るほど清潔にされていた。

 家主は、潔癖なのだろうか。

 想像してから、この異常な状況に自分が慣れつつあることに気づいた。心臓の音も、ほんの少し和らいでいたが、リラックスしている場合ではないことを思い出して、すずめは、またすぐに、歩き出す。廊下は木の床、リビングダイニングと浴室や水回りは大理石の床、主寝室とゲストルーム、すずめの安いアパートの二倍はありそうなウォークインクローゼットはカーペットが敷き詰められている。ウォークインクローゼットだけでかくれんぼが出来そうだ。高級そうなスーツや靴、装飾品、カバンに帽子、どれも規則正しく並べられていた。怖いほどに規則正しくて、恐ろしいほどに、汚れていない。すずめは、自分が歩くことで痕跡が残ることが怖くなった。あちこち探しても地下室の入り口など見つけられなくて、すずめは、焦りを覚えた。日中は、無人になると聞いていたけれど、日中の定義までは聞いていなかった。床という床を這いずり回って、げんなりする。このまま帰ったら、残りの15万円は支払われないかもしれない。越智は、社会の汚い場所で生きてきた大人の匂いがした。だから、すずめと契約書というカタチを交わさなかったのだ。




 「もう、やだ」




 日はまだ傾いていないけれど、すずめの不安は高まった。もう一度、主寝室に向かったが、広すぎる部屋には、使っていないかのように綺麗に整えられたダブルベッドと、壁にかかった絵だけがあった。這いつくばった床には、カーペットが敷き詰められているだけで、切れ目も見つけられなかった。もう一度、部屋を出て、順番に扉を開けて閉めていく。おそらくは木の床の場所に、地下室の入り口はあるだろう。いくつもある扉を開けて、閉めて、先ほど気づかなかったキッチンの奥の扉を期待を込めて開ける。キッチンと同じ黒い大理石の床であることに落胆する。暗くて湿ったその場所は、ワインセラーとパントリーの役割を担っているらしい。見たこともないワインが所狭しと並び、そして、食料品が目についた。とたんに空腹を感じて、すずめは、一瞬手を伸ばす。すずめがスーパーの安売りで買うような保存食のぱさぱさした魚の缶詰ではなく、一生口にすることが出来ないような高そうな缶詰があった。


 詮索するな、得ようとするな、余計なことをするな、多くを語るな


 その言葉を思い出したが、すずめは一つだけ、缶詰を手に取った。ポケットにねじ込んで、部屋を出る。もう一度、中庭の奥まで進み、そちらから順番に扉を開けていく。先ほどまでいたリビングで、カタリと物音がした。すずめは飛び上がって、先ほども開けた掃除用具が入った扉にしがみついた。ほぼ同時に、掃除機のような音がして、すずめは震えあがる。リビングに、ロボット掃除機があったことを思い出したが、恐る恐る部屋を覗き見た。黒いロボット掃除機が、規則正しく床を這っていた。この家の主に感じる几帳面さを彷彿とさせる動きだった。すずめは、開けっ放しにしてしまった扉まで戻った。清掃用品が入れられているだけだというのに、無駄に広いそこには、海外製のハンディ掃除機に、業務用のような床を磨くポリッシャー、いくつもの洗剤と漂白剤、不釣り合いなポリバケツとゴム手袋、医療用の手袋とエプロンまで並んでいる。整然とはしていたけれど、他の部屋とは違う印象を受けた。先ほどは入らなかったその部屋に、一歩入った瞬間に、すずめは違和感を覚えた。足元を見て、もう一度、体重をかけるように体を動かす。わずかに軋む気がした。床に置かれている、バケツをどかすと、指をひっかけるような穴が見えた。重そうだと力を入れて引き上げたが、案外軽くて、腰に違和感を覚える羽目になった。ぽっかり開いた地下への扉は、真っ暗で、この先にあるのが地獄だと知らしめているようで怖くなった。自分の頬に汗が伝うのを感じて、慌てて袖でぬぐう。


 中に入って写真を撮ってこい


 越智はそう言っていた。すずめは、恐る恐る石でできた階段を降りる。しっかりとした造りのそれは冷たかった。ゆっくりゆっくり、歩いて、降りると、中にはスクリーンがあった。モノクロの昔の外国の映画のようなものが流されていたが、すずめには、なんの映像かは分からなかった。無音の映像を映すスクリーンの前には、簡素な造りのベッドと、木の椅子が置かれている。家に侵入したときよりも、ずっと、ずっと、心臓の音が大きくなった。写真を撮れと言われていたことを思い出して、ポケットの携帯電話を探ると、缶詰を落とした。暗くて、見えないが、落とした缶詰の音が響いた。すると、音に反応するようにベッドがきしんだ。




 「っ!」




 誰かいる。すずめは、声を上げそうになって、必死に口を手で覆った。携帯電話のカメラを起動して、ゆっくり近づく。そこには、包帯を巻かれた人が鎖でベッドにつながれていた。目は閉じないように、金具をいれられていて、強膜が真っ赤に充血している。大丈夫ですか、そう走り寄ろうとして、そこで初めて包帯の先が視界に入った。あるべき手足が、そこにない。すずめは今度こそ、小さな悲鳴を上げて、携帯を落とした。


 ここはまずい。いちゃいけない。


 すずめは、暗闇に落とした携帯を手探りで取り、立ち上がろうとしたと同時に、気配を感じて振り返った。次の瞬間には、頭を衝撃が襲った。頭の骨が折れたのではないかと思うほどの衝撃と、頭痛、全身の痛み、口の中の血の味、とてつもない恐怖、そこまでは感じられた。





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