M-1 夏だ!祭りだ!勉強だ!
「E判定だって」
練乳いちご氷の一角がくずれて、野巻アカネの顔がのぞいた。
赤フレーム眼鏡奥のまぶたに、ほのかに色がのせてある。夏らしい空色のアイシャドウだ。
冷たい抹茶を啜っていた雷宮光の唇から、「あ?」と「は?」の中間みたいな声がもれた。
「演劇部の後輩が水無月くんと同じ塾に通ってるのよ。夏休み前の模試の結果が出て、水無月くん、講師に呼び出されていたみたい」
「E判定って。黒志山大学が?」
「他に受験しないでしょ」
菓子店舗の喫茶スペース。
お盆の祭りシーズンで、浴衣の女性客がちらほら見られる。ほどよく冷房がきいた空間で、かき氷をスプーンでしゃくしゃく混ぜるアカネを前に、光は呆然とつぶやく。
「春の模試ではB判定だったのに」
黒志山大学、というのは彼女たちが通う大学で、光の恋人である水無月日向の志望校だ。安心してください! と自信満々だった彼に、いったい何が起こってしまったのだろう。
「塾生でダントツの最下位だって。やる気があるのかも疑問な点数だったらしいよ」
「なんでだよっ!」
「アタシに怒られても……光が知らないのに、アタシが知るわけないでしょ」
というわけで、所属する演劇サークルに向かう予定を急きょ変更し、二人は水無月家に直行することになったのである。
地下鉄を乗り継ぎ、北国にしては凶悪な太陽がギラギラする天下、住宅街をすすむ。かすかに風が吹いているのが救いだ。
「光、待って。足が痛い」
「そんな凶器みたいな靴を履いてるからだ」
ミニスカートにスニーカーで早歩きする光を、七センチヒールサンダル履きのアカネが途中何度も追いついた。
水無月家の門扉をくぐり、インターフォンまで突進する。
「――あれぇ、光とアカネさん。いらっしゃい」
出迎えてくれたのは、日向の弟の陽太だ。
今年の春に中学一年生になった。学校指定の紺ジャージに、スポーツバッグを肩にかけている。
「陽太くん、ひさしぶり! ちょっと見ないうちに大きくなったね」
「部活か?」
光がたずねると、日向にそっくりな美少年顔で爽やかに笑った。日焼けした頬にえくぼが出来る。
「サッカー部。遅れると顧問が厳しいんだ。兄ちゃんなら部屋で寝てるよ。ゆっくりしていって」
「六華亭の水ようかんとフルーツゼリー、冷蔵庫に入れておくからね」
「いつもおみやげありがと。いってきます!」
靴ひもを結んで、慌ただしく出ていく。
アカネはさっきまでの疲れを忘れたようにはしゃぎ出した。
「へ~え! 陽太くん、何だかすごく良い感じになったんじゃない? 小学生のときはクソガキだったけど」
「中学に入ってから落ち着いたらしいよ。背も伸びたし。日向と違って、運動神経も良いしな」
「将来が楽しみね!」
と彼氏持ちのくせにアカネが浮気なことをいう。実際、光も、最近の陽太を出逢った頃の日向と重ねることがあるけど、それは秘密だ。
両親が共働きの水無月家の家は、広く、がらんとしている。やましいことはないがドロボウのように忍び足で、女子大生らは階段を上がった。
「日向」
ノックをするが返事はない。
「わ、ちょっ、光!」
光が乱暴にドアを開け放つと、カーテンが揺れる六畳間で、気持ちよさそうに眠っている日向がいた。
前回ここを訪れたときは、問題集や教科書が床にも積み上げられ、雪崩が起こりそうな状態だったのに、意外なほど片付いていた。
「こらっ起きろ!」
「ん……んん」
股の間に挟んだタオルケットを引っ張ると、う~んと唸り寝顔をゆがめる。
暑かったのかランニングシャツにパンツという有り様で、シャツがまくれ上がって腹と背中が覗いている。部屋に引きこもってばかりいるせいで、肌は真っ白。健康的な陽太と比べて対照的だ。
「あらぁ、あられもない恰好」
遅れて入ってきたアカネが手で顔を覆うと同時に、日向は飛び起きた。
「っ、わああああッ! 光さん、と、野巻先輩……!?」
ひい、と悲鳴を上げてベッドの隅に縮こまる。
寝癖のついた頭で、眼をしぱしぱと擦る。
「なんですか朝からもうっ」
「朝じゃない。もう昼だ。聞いたぞ――E判定」
眠気で不機嫌そうにしていた日向だが、光の冷徹な声に、すっと表情を強張らせた。怒りの波動を感じたのだろう。
「どういうことだよ。受験までB判定をキープするんじゃなかったのか」
日向は一瞬ヤバい、という顔をしたが、言い訳しても無駄と悟ったのか、唇を尖らせてもごもごと言う。
「だって……光さん、僕を騙したじゃないですか」
「だます?」
「一緒の大学に通えるからって、頑張って勉強したのに。四年生になったら、就職活動で大学に来なくなるんでしょ」
どうやら初夏のオープンキャンパスで、情報を仕入れてきたらしい。
「そんなことないよ、水無月くん。四年生にはゼミと卒論があるし。それに、光はお父さんの工務店を継ぐ予定だから就職活動ないし」
すかさずアカネがフォローを入れる。
しかし日向はむっすり顔を緩めない。
「在校生に聞いたら、建築学科は三年生になると別校舎での実習が多くなるって。結局、一緒に通えないじゃないですか」
二学年の年齢差が悩ましい。
経済学部志望の日向だが、光の学科のことまで調べてきたとは。誰が教えたのか知らないが、お節介をしてくれたものだ。
「そんなこといわないで、アタシと一緒に通おう?……ってダメか。田雲先生に嫉妬されちゃう」
アカネは明るい髪色の頭を押さえて、
「でも、E判定はまずいんじゃないの? 黒志だってレベルが高いわけじゃないのに」
「いいんです。僕はもう勉強しません」
「なんですとっ!?」
「親が大学出とけってうるさいから、今の成績のまま入れるバカ大学を受験します」
「……日向、ずいぶん部屋がキレイだな」
押し殺した声で光が聞くと、日向は得意げにニヤリと笑った。
「でしょ? 断捨離したんです。参考書とか問題集とか」
「…………」
生まれて初めて――光は立ちくらみを経験した。
もともと成績が良くない日向だが、集中すると力を発揮するタイプで、テキストが散らばった部屋で勉強に熱中していたのに。
「捨てたのか?」
「ビニール紐でくくって物置に移しました。昨夜やり出したら止まらなくなって、朝までかかっちゃって」
悟ったような、達観したような表情をしている。
違う。これは違うだろう。
たとえ同じ大学に入れなくても、一生懸命努力した結果なら、あるいは興味を持っている宇宙科学を学びたい、とか。そういった事情であれば光も納得できた。日向の未来なのだから。
でも、これはダメだ。努力すること自体を放棄してしまっている。真夏の暑さや模試のストレスで、一時的な気の迷いと信じたいが――
「別れる」
ほえ、と日向はアホみたいに口を開けた。光はもう一度いう。
「もうお前とは付き合えない。別れる」
「ちょっ、光!?」
突然の修羅場にアカネがあたふたとして、
「何言ってるの、いきなり」
「日向と別れて陽太と付き合う」
光を好いている弟の名が出てきて、日向は血相を変える。
「陽太と、って。なに考えてるんですか、ダメですよっ、そんなの! 光さん、ずっと一緒にいてくれるって約束したじゃないですか! 僕と結婚してくれるって」
「えっ、結婚ってマジ!? おめでとう!」
アカネが頬をぽっと染めて拍手する。どこかズレている。
一方、必死に訴える日向だが、下着姿なのでいまいち締まらない。
光は怖い顔のまま沈黙していたが、
「――わかった。ただし、条件がある」
「条件?」
「次の模試で、B判定を取り戻せ」
「でも、僕はもう受験は」
「うるさい! やるのかやらないのか!?」
「…………や、やります」
問答無用、とばかり怒鳴られ、日向は首を縦に振るしかなかった。
夏祭り編です。バレンタイン編から、少しだけ時間が進んでいます。週1,2のゆっくり更新でいく予定ですが、お付き合いいただければ嬉しいです。
ちなみに、ミステリーアンソロジー『この謎が解けますか? Re...』(http://book1.adouzi.eu.org/n6623dy/)に、当シリーズの短編を投稿させていただきました。『逃げろ傘ドロボウ!』というタイトルです。よろしければ御覧ください。




