V-3 H2O殺人事件【問題編】
「知ってる? 浦島太郎」
「おとぎ話のですか」
「彼は世界初のタイムトラベラーなのよ」
物理準備室の大机には、スナック菓子――日向が買ってきた――が並んでいる。
宇宙研の女子部員がチョコを摘まみながら話し込んでいる。はためには女子会だが、内容はごつい。
「太郎が竜宮城で三年過ごして戻ってきたら、三百年が経過していたの。彼は三百年先の未来にタイムトラベルしたってこと」
楽しげに解説する星住に、莉麻はポッキーをくわえたまま、
「聞いたことがあります。浦島太郎は『宇宙旅行』をしていたっていう例えですよね。光速の『亀型宇宙船』にのって」
ん~、と宇井川がとがった顎を引く。「あくまでも相対性理論の帰結としてだけどね。速く移動する物体ほど時間が『ゆっくり流れる』から」
「東雲ちゃんはタイムトラベルって可能だと思う?」
「理論上は可能ですけど……実際には光の速度で移動なんて出来ませんから。無理でしょう」
面白くなってきたところで、議論は小休止になった。
莉麻が伸びをしながら窓辺に歩み寄っていく。鉢植えのサボテンに明るい陽が当たっている。
「あ、東雲ちゃんダメ」
ネームピックに触れようとした莉麻が指を引っ込めた。星住がいう。
「そのピックね、正やんが陽が当たった側に向きを変えてるの。まんべんなく日光を当てたいとかで」
正やんこと、宇宙研の顧問、正木先生のこだわりだ。水やりは部員まかせなのに、変なところでこだわるな、と日向は思ってしまう。
「気をつけます」
ごめんね、と星住が仮入部した後輩に謝る。べつに彼女が謝る必要はないのだが。
「お邪魔しまーす」
ひかえめなノックの後、女子生徒が顔をのぞかせた。目を覆い隠すほどに前髪が長い。
「推理研の七条原聡子と申します。水無月くんと、東雲ちゃんをお迎えにあがりました。ヒーッ」
「え?」
一瞬、コウモリの鳴き声か、と思ったが、七条原の引き笑いだった。変な笑い方だ。
「四階の予備室まで、ちょいと御足労願えますかね」
「なに。なにごと?」
怪しむ星住と宇井川に、「用事」とだけ告げて、日向は物憂げに立ち上がる。
「星住さん、部室の戸締りお願いしていいかな」
「……いいけど。このお菓子食べちゃっていいの?」
「うん」
「日向くんが食べ物を残していくなんて」
宇井川がショックを受けたように黙りこむ。失礼だろう。
「すみません私のせいでスミマセン」
申し訳なさそうにぺこぺこ頭を下げる莉麻と部室を出た。
「こちらへ」
七条原聡子が先導してくれる。
腰まで届く漆黒の髪が、蛇のごとくうねっている。不気味な後ろ姿だ。
「顔の腫れ、だいぶ引きましたね」
隣を歩く莉麻がささやいてきた。
心配そうに見上げてくる少女を見つめ返すと、頬を赤らめて目をそらす。
『二十七日間契約』も半ばを過ぎたというのに、相変わらずだ。1日1デートの約束で、放課後は一緒に過ごしているが、この子本当に楽しいのか、と疑ってしまう。
日向も、改善したとはいえ女性恐怖症なので、恐怖症VS恐怖症の我慢大会みたいになっていた。
もし、タイムトラベルができたら、と思う。
どこまで過去に戻れば、何も無かったことにできるだろう――? そうしたら、売り言葉に買い言葉で受けてしまった『推理クイズ』にも挑まずに済んだのだろうか。光のことも……。日向はひそかに嘆息した。
三階と四階の間の踊り場に、Tシャツ姿の男子生徒が二人いた。
ワンツースリー、とカウントしながら踊っている。ダンス同好会だ。部室がない彼らは、校舎の適当なスペースで活動しているのだ。
階段を上がりきった正面に図書室があって、回れ右をした廊下の10メートル先で、男女が黙々とカードを切っている。BGM(『オリーブの首飾り』)から察するに、奇術同好会だろう。黒志高のサークルはバラエティに富んでいる。
「ここです。どうぞ」
特別棟四階〈予備室〉――推理研の部室。
扉にでかでかと紙が貼られていた。『事件現場』の文字の下に、『H20殺人事件』とある。H20……水?
「ようこそ、殺人現場へ――」
がらんとした室内で、推理研会長の推森琢也は学習机に腰かけていた。
シャーロックホームズっぽいハンチング帽を被っている。
「ああ、東雲さんも来てくれたね」
推森は微笑んで、「最初に白状するよ。犯人は僕だ」
「……?」
奇異な状況だった。
水浸しのジャージ――まるで人間だけが消失してしまったかのように――が、上下そろって床に並べられていた。
学校指定のものでカラーは赤。吸水性の良い生地から水が染み出し、水たまりができている。
「被害者の名前は、『Hくん』としておこう。ちなみに、彼は〈水溶性宇宙人〉だ」
「……宇宙人?」
「説明しよう。Hくんは擬態して人間たちに紛れ、地球征服をたくらむ宇宙人だったのである」
とうとつに設定が語られ始めた。
唖然としている日向と莉麻に、推森が淡々とつづける。
「僕は地球防衛探偵団に送り込まれた刺客でね。Hくんを殺して、悪事を未然に防いだ、というわけだ」
「ちょ、ちょっと待ってください」
日向よりは推森に耐性があるのだろう、莉麻がストップをかける。
「被害者は水溶性宇宙人って……つまり、水に溶けちゃったってことですか?」
「僕が浴びせた水で、彼は絶命した。犯人はまぎれもなく僕だよ」
よく見ると推森は、〈犯人は私です〉というタスキをかけていた。ふざけた設定に負けず、ふざけた演出である。
「次が重要だからよく聞いてくれ。
この現場は犯行直後の状況と何ら変わっていない。犯人の僕でさえ、ここに留まり続けている。疑うなら、外にいる〈目撃者〉に確認してもらって良いよ」
目撃者……踊り場にいたダンス同好会と、廊下の奇術同好会のメンバーのことだろうか。
「彼らにはあらかじめ協力を依頼してある。何なりと聞くがいい」
思っていたよりも大がかりな設定に驚いていると、水無月くん知ってるか、と意味深に呼びかけられた。
「うちは元々、『推理小説研究会』だったんだぜ。僕が会長になってから、『推理クイズ研究会』に改名した。どうしてだか分かる?」
尋ねたくせに間を空けずに、
「『推理小説』はいまや混迷を極めた。
SFやハードボイルド、スパイ小説やホラー、合理的な解決さえされていない物語も含まれるというんだから呆れる。僕は、Who? How? Why? に拘った謎解きを偏愛していてね。あえて定義させてもらうよ――推理小説とは、‟出題者VS回答者”の戦いである、と」
うんうん、と首を上下にふる七条原。推森に洗脳でもされているのか。
「あの、推森先輩」
「なんだい東雲さん。推理研に戻る気になった?」
「いえ――ようするに、どういうことなんでしょう?」
莉麻がつぶらな目で予備室を見まわす。
「だって、先輩が犯人なんですよね? いったい何が謎なんですか」
「何が謎、ね。いい言葉だ」
くつくつと推森が笑う。
「今回君たちに解いてもらうのは、『How』。つまり――僕はいかにしてHくんを殺したか? ということだ」
「そんなの」拍子抜けしたように莉麻が、「被害者は水溶性宇宙人なんだから。水を浴びせて殺した……って推森さんさっき自白してたじゃないですか」
「察しが悪いな東雲さん。犯行後、僕はここを一歩も出ていないんだぜ。当然、浮き彫りになる謎があるだろう」
「窓は?」
日向が投げた質問に、開けていない、と推森は即座に答える。
窓枠には、寒さ対策の断熱用シートがぴっちりと隙間なく貼られている。そのせいで、外の景色が不鮮明になっていた。
「窓から何かを出し入れした、ということは一切ない。僕のフェア精神に免じて信用してもらおうか」
事件の流れを教えよう、と推理研の会長は先に進める。
「今日の午後四時、犯人である僕は階段――ダンス同好会が踊り場にいただろう――を上がって、予備室に潜み、Hくんを待ち伏せた。四時十分、やって来たHくんに水を浴びせて死にいたらしめた。以上」
「以上って……」
前段の設定説明と比べて、あまりに呆気なかった。
「――さて、ふたたび問おうか。この事件における謎とは何か?」
推森が迫ってくる。
クイズ以前に、奇妙な問題を吹っかけられてしまった。
日向は人差し指を唇につける。けっして広くない部屋を探っていく。
Hくんの亡骸を思わせる水浸しのジャージ、推森が陣取る学習机。隅に置かれたロッカーを開けると、コピー用紙の束が積まれていた。(隣のコンピューター実習室の備品だろう)
「そういえば、七条原さんは? 何か役割があるんですか」
「わたしは案内役。物語でいうメタ的存在ですので、どうかお気になさらず。ヒーッ」
七条原の引き笑いに、とうとう莉麻が噴きだした。七条原がツボらしい。
「――どうだい? 試験問題にたどり着くまえにお手上げ、なんて勘弁してくれよ」
「いや、わかったよ……多分」
おもむろに答えた日向に、推森は「ほぅ」とハンチング帽のつばに触れる。
「この現場が犯行後そのまま保存してあるなら、明らかに足りないものがある」
日向は水浸しのジャージをチラっと見て、
「‟凶器”の『水』は、推森くんが予備室に運びこんだ?」
「ああ。ここに水場があればいいけど、用心深いHくんに警戒されたら困るんでね。三階の手洗い場から運んできたよ」
「だとすれば、おかしい。何故なら、この部屋には、水を運ぶための道具が無いんだ」
「ご名答」
パチンと指を鳴らす推森。
「さて、犯人・推森琢也はいかにして凶器――水を現場に運んだのか? ハウダニット・クイズの開幕だ」




