終話 それはまるでエピローグのような
気持ちの良い青空の日だった。
日陰に残った雪も、ぐんぐん溶かしてしまいそうな――終業式の日。
「みなづき待てコラぁーっ!」
水無月日向は逃げていた。
「しつっこいな……」
舌打ちをする。うまく撒けたと思ったのに。
渡り廊下を走り抜け、特別棟の階段を駆け上がる。背後からは、「コロス!」と物騒な雄叫びがまだ聞こえてくる。
四階まで昇って、廊下の端から端までを全力疾走した。
「くそ……どこ行きやがった……」
踊り場に身を潜めていると、追手がUターンして遠のく気配がした。
ほっと一息吐く。
たたん、たたん、と。リズミカルに三階まで降りたところで、日向は立ち止まった。
廊下の突き当たりに、人が、いた。
限りなく黒に近いグレーのスーツを着た女性。
背中の真ん中まで伸びた艶々の髪、スリッパ履きでも際立つ美脚、手を添えた腰はきゅっとくびれて、ヒップまでの曲線が悩ましい。
新任の教師か、はたまた教育実習生か。
後ろ姿に見惚れていると、女性が顔だけ振り返る。射られたように動けずにいると、大股で歩み寄ってきた。
「え……えっ、ええっ!?」
襟首を乱暴に掴まれ、階段脇の空き教室に押し込められる。後ろ手で素早く扉を閉める。その手際、じつに慣れている。
「痛たた」
床に放られて、打った尻をさすっていると――
「久しぶり。卒業式以来か」
薄化粧した顔に覚えがあった。
「ら、雷宮先輩っ!?」
雷宮光は、頬にかかった髪をすくいあげて耳にかける。
「……その恰好」
「もう制服を着るわけにいかないしな。大学の入学式用に買ってもらったんだ。似合う?」
あらためて、上から下までじっくり観察する。サイズもぴったり合っていて、着られた感がまったく無い。
「とても似合ってます……けど、なんだか別人みたいで」
女性恐怖症がぶり返しそうだ。後退りする日向に、光は妖艶に微笑みかける。
「報告することがあって来たよ」
「報告?」
「東京の大学な、落ちたよ」
思わず息を呑む。
内心こみ上げる感情を抑えて、いかにも残念そうな表情を創った。いや、創ろうとした。が――
「見え透いた演技をしやがって」
「へっ」
「満足だろう?」
顎をくいっと持ち上げられ、強制的に視線を合わせられる。
「何たって、私が落ちたのは、お前のせいだからな」
冷たい何かが背中を滑り落ちるような感触があった。
殺意がこもった双眸に、喉の奥でひくっと変なうめきが漏れる。
「――さて」
光はスーツの腕を組む。
「“最後の謎解き”をはじめようか?」
*
「まずは確認から」
新任教師よろしく、光は教卓の椅子に座っている。
とはいえ、ふんぞり返って足を組んでいる様は横柄極まりなく、新任のイメージとは程遠い。
「卒業式の日のことだ。
私が水無月家を出たのは午後三時半頃。日向がうちを訪れたのは、四時半頃だったな」紅い唇が滑らかに動く。「その後、帰宅した水無月日向は、雨でずぶ濡れ状態だった」
「……カナさんに聞いたんですね」
当然ながら風邪は悪化した。肺炎になりかけた。
あれから実に一週間、ずっと日向は寝込んでいたのだ。
「水無月家から雷宮家までの所要時間は地下鉄で片道二十分。多めにみても往復六十分。そして、雨が降り始めたのは午後六時頃からだった。ここで疑問が湧く」
ぼんやり首を傾けると、ちっと舌打ちされた。
「この期に及んで白々しいな。つまり――真っすぐ帰っていれば、五時半には家に着いていたハズだろう。そうだな?」
「……はい」
「雨にも濡れずに済んだ」
「……そのとおりです」
「ということは、だ。高熱で風邪っぴきにも関わらず、お前はどこかに『寄り道』したことになる」
うつむく角度がだんだん大きくなっていく。
「ちなみに、宮西カナに確認した正確な帰宅時刻は午後六時半。約一時間の寄り道だ。――その間、水無月日向はどこで何をしていたのか?」
脚を何度か組み直す。
床に座った位置からは大変良い眺めだったが、鼻の下を伸ばす余裕はない。
「例えば、だ」
光は言う。「うちの最寄り駅から十五分。乗り継ぎ等にかかる時間を十五分。自宅へ戻るための時間を三十分――と想定したとき、ぴたりと当てはまる場所がある。〈円山公園駅〉だ」
地下鉄東西線の駅名である。
「円山公園駅の周辺には何が在る?」
「……ど、動物園? いや、ジャンプ競技場かな?」
光は薄く笑う。
「他にもあるだろう。答えたくないなら言ってやろうか? 〈北海道神宮〉だ」
全身の肌がぞくっと粟立った。
「よくもやってくれたなあ?」
スーツの懐から何やら取り出す。
それは、〈合格祈願の絵馬〉だった。表に的を射抜いた矢が描かれ、裏には光の名前がある。妙なのは、吊り下げ用の紐にビニル紐が足され、本体を一周して下部に縛り口が作ってあることだ。
「逆さに吊るしてあった。――お前の仕業だな?」
万事休す。決定的な証拠を突き出された日向は、その場で土下座するしかなかった。
「っ、申し訳ありませんでした!!」
ほんの出来心だった。
あの日、逆さに吊るされたテルテル坊主――フレフレ坊主を見かけて。
『志望校に受かりますように』――その願いが、叶いませんように、と。
「合格率は五分五分だったからな。神頼みでイケるかもしれない、とでも考えたんだろう?」
大当たりです。
日向は真っ赤になった。いま世界で最低なのは自分だ、と確信できた。
「……もう会わないつもりでした」
カラカラの喉から声を絞り出す。「こんなことしちゃったし……。受かっていたら、潔く諦めようと決めていました。でも」
上目遣いに光を見て、
「あくまでも『神頼み』ですから。実際に落ちたのは、僕の責任じゃないですよね……?」
「反省しているんだよな?」
「それはもう!」
猫みたいな目でギラリと睨まれ、日向は身をすくませる。
押し潰されてしまいそうな沈黙の後、光は天井を仰いで、大きな溜息を吐いた。
「まあ、どちらかといえばうちの親も反対だったし。最初の予定どおり、黒志山大に行くことにしたよ」
ぱっと表情を明るくさせた日向を、三度睨みつける。
「でも正直、お前のことは見損なったぞ。
東京に行くかもしれないって伝えただけで、勝手に暴走してるし。私は、別れるつもりなんて、これっぽっちも無かったのに」
頬を膨らませた光は、日向の前にしゃがみ込む。
「『ずっと近くにいてください』――って。その通りになったからな。責任取れよ?」
「……あ」
そのとき、遠くから怒号が聞こえてきた。「やば」と、日向は光の腕を引いて抱き寄せる。廊下の足音が近づいてくる。
「誰だ」
「天文部の天野川先輩です。今、逃げているところで」
「逃げる? なぜ?」
「僕、新しいクラブを作ることにしたんです。『宇宙科学同好会』」
光は目を丸くした。「日向が部長になるのか?」
「同好会なんで、会長ですけど。――で、会員募集のポスターを貼っていたら、星住さんと宇井川さんとが天文部を抜けてこっちに入るって言い出して。『ウチの部員を引き抜くな!』って、猛烈に逆恨みされているんです」
あちゃあ、と光は額に手をやる。
「お前のせいじゃない。けど、やっぱりお前のせいかな」
「そんな」
くすくす、と小さく笑い合う。
「――あの、これ。遅くなりましたけど、合格祝いです」
日向はブレザーのポケットから布ケースを出す。中から、透明の小さな石が付いた指輪が出てきた。
「三か月無駄遣いを我慢して、お年玉の残りを足して買いました。高価なものじゃないですけど」
もじもじしている少年に、光は左手の甲を出す。
「はい。ここでしょ」
左手の薬指。
不器用な手つきで嵌められた指輪を、光は空にかかげる。陽に反射して、石が虹色に光った。
「ふうん。きれい」
「実はそれ。浮気されないように、ちょっとした工夫がしてあります」
あやしげな告白に、光は顔をしかめた。「なんだよそれ。盗聴器とかカメラが仕掛けてあるんじゃないだろうな?」
日向は王子様的な笑顔で上品に微笑む。「秘密です」
「はあ?」と、光はしばらく指輪を外して弄っていたが、「まあ、いっか」と嵌め直す。
「ありがとう」
桜色に染まった頬で、柔らかく笑った。
制服を脱いだ光は、いっそう綺麗で大人びて見える。
対して、自分はどうだろう――? 包容力とか自信とか。まだまだ全然足りてない気がする。彼女に追いつける日は来るんだろうか。年齢は無理だけど、他のいろいろな面で。
「いやだなあ」
ふーっと長い息を吐き、わしゃわしゃ頭を掻く。
「実は、僕、すごく嫉妬深いんです。多分、先輩――光さんよりもずっと」
「知ってるよ」
光はにっこり極上の笑みを浮かべた。
「日向も。浮気したら殺す」
「はい」
そりゃあもう。わかっていますとも。
「私ね、四月から独り暮らしするんだ」
「そうなんですか。家から通える距離なのに」
「ずっとしてみたかったんだよ。東京へ行かなくなった代わりに、許可してもらった」
だからね、と唇を寄せて、
「いつでもおいで」
「……はい」
甘やかに囁かれ、耳の先まで赤くなる。久しぶりの感覚に心拍数が上がる。
「どこだぁ、どこにいるー!?」
天野川の雄たけびが迫ってきた。ついでに予鈴も鳴りだした。
ふたりは顔を見合わせる。
せわしい雰囲気のなか、その瞬間だけ切り取るように、こっそりとキスを交わした。
(『階段下は××する場所である』…end.)
本編はこれで完結となります。読者の皆様には、感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございました。ではでは、また作品を通じてお会いできたら光栄です。【H28.7.14 羽野ゆず】(あ!最終話、神社でそういう悪戯が出来るかは不明です。フィクションですのでお許しください(^_^;))
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