9-8 エピローグ―過去からの脱出【解決編】
漆喰壁に掛かった鍵は、三色のライトに照らされて、鈍色に輝いている。
今までの素っ気ないシリンダー錠と違い、アンティーク調の装飾が美しい。
「ホントにあった――」
探し当てた日向は、驚きと喜びが混じった複雑な表情をしている。
背後では、皆が固まっていた。目を輝かせるアカネの他、唖然とした楓とカナ。【E】の部屋からは、光と陽太が顔を覗かせている。
「え、いや……どういうこと?」
表情豊かな楓が表情を失っている。
「“かつて扉が在った場所”――が、どうしてそこなんだよ!?」
「言葉通りの意味よ」
元女優のよく通る声が響く。
高校生たちの間をすり抜け、玲於奈は突き当たりの壁に到達する。
「ここに」壁をノックして、「在ったのよ、“扉”が。一瞬だけどね」
「……あ」
小さな目を瞬かせ、カナが両手で口を覆った。
「もしかして、あのとき――!?」
玲於奈が微笑む。無言の肯定だ。一呼吸置いてから、日向が話し出す。
「じつは、最初から違和感があったんだ。
『脱出ゲーム』っていうのは、閉ざされた空間から出ることが目的だよね?」
「そのままの意味だな。脱出=クリア、だ」
いまさら何を、とでも言いたげに楓が答える。
「今回のゲームも、扉の鍵を探して脱出することが目的――なのに、その肝心の“扉”を暗幕で隠してしまうなんて。『ゴールの標』である扉を、プレーヤーの視界から閉ざしていることに違和感があったんだ。それに」
日向は暗幕に挟まれた空間を見渡して、「扉側だけでなく、突き当たりの壁にも暗幕が掛けられている。なぜか?」
「ナゼっていうかさ……」ウンザリしたようにアカネが愚痴る。
「どちらを向いても暗幕で、同じような部屋を行ったり来たりでしょ? 方向感覚が変になりそうだって。どっちがどっちだか分からなくなるっていうか」
「いや分かるでしょ!」
童顔の頬を紅潮させて、楓が反発する。
「部屋の“色”が違うんだから。少しくらい混乱したって、並びで分かるさ。手前から赤、黄、青の部屋って」
「じゃあ、その“並び”が変わったとしたら――?」
「は?」
「赤、青、黄は塗装されているわけじゃない。ライトで照らされているだけだ。
ライトの色が変わってしまえば、“並び”自体が変わるよね。内装はそれぞれに違うけど、外から見る分にはわからない」
すぐに反論したのは陽太だ。
「それでも分かるって!! だって――」安全旗を手にした玲於奈を指して、
「扉側には〈案内係〉がいるんだから。玲於奈さんだけじゃなくて、机も置いてあるし」
「そう」日向は両の口端を上げる。
「“〈案内係〉が立っているのが扉側”――いつの間にか、僕らはそういう判断をしていた」
「だったらハッキリしてるだろ? 玲於奈さんがいる方が扉側だって……まさか」
そこまで言って、陽太は沈黙した。日向によく似た大きな瞳が限界まで見開かれる。
「移ってたの!? 逆側に!?」
「うん。一瞬だけどね」
素っ気なく玲於奈が答える。
「……ウソだろ。いつ!?」
「【黄の部屋】を往復させられたときだよ」
世界主の言葉に従い、【D】→【C】→【D】。無意味な移動を強いられた。
「二度目の肩透かしをくらって、テレビが在る部屋へ戻るとき――玲於奈さんは逆の壁側に移動していた」
【C】→【D】間のことである。
「覚えてるそれ!」カナが興奮気味に続ける。
「『頑張って!』って声かけしてくれたとき。逆の方から声が聞こえたの」
思い出すように左耳を触る。「玲於奈さんの声、キレイでよく通るから。印象に残ってるんです」
「ほえ~、スゴイね。アタシなんて、ゲームに夢中で全く気づかなかった」
両手を上げるアカネに日向が、「そういう演出がされていたんだと思います。黄色の部屋を何度も往復させたり、プレーヤーを挑発するような世界主の語り、とか」
「マジかよっ、くそ!」楓が憤る。
日向は、すっと人さし指で下唇をなぞった。
「玲於奈さんだけでなく、“色の並び”も、その瞬間だけは左右逆になっていた筈です。
つまり、その間、この世界は左右が逆転していた――」
軽く天を仰ぎ、小さく息を吐く。
これまでの問題、解答のパターン。おそらく間違いないはずだ。
「左右逆転していたということは、擬似的だけど、“扉の位置も逆転していた”――とみなすことが出来るんじゃないだろうか。それが――“扉が在った場所”が意味するところなのでは?」
こつり。鍵が隠されていた壁を叩く。
黙って聞いていた玲於奈は、首を下に向けた後、小さく頷いた。
「私の仕事は、あなたたちが【黄の部屋】にいる間に、私自身と机を移動すること――そして、その為のスペースを作ることだった。作業自体は簡単よ」
【E】と【F】の部屋を順に指して、
「机は小さくて軽いものだし、壁のパーテーションはキャスター付きだから、すぐに移動できる。でも、ひとつだけ懸案していたことがあったの。プレイ中に思い付いて、予定外の行動をするハメになったんだけど」
「雷宮先輩ですか?」
単刀直入な日向の指摘に、玲於奈は瞠目する。
「何でもお見通しなのね。このトリックを発動するには、6人が一緒に行動してもらわなくちゃいけない。誰かひとりでも横断歩道に留まられたら、作業が出来なくなってしまう。だから、遅れて来た光ちゃんにお願いしたの」
一身に視線を受けた光は肩をすぼめる。
「全て種明かしされてたわけじゃないよ。『部屋間を移動するときは、皆で行動するように取り計らってくれないか』って頼まれただけ」
『こういうのは皆で行動しなきゃ。誰の閃きが正解に繋がるかわからないし』――。先走りしようとした楓を止めた光の台詞である。そんな裏が在ったとは……。
「じつは、最初の気付きも雷宮先輩がきっかけでした」
青いライトが漏れる【E】の部屋から、カレンダーを取ってくる。
「空野くんが壁にぶつかったとき剥がれて、隣の部屋まで飛んできたみたいで」
紙片を掲げて、〈12月〉の2を片手で覆う。
「雷宮先輩が、一番最初に見たときと次とで、見え方が変わっていたそうです。こんな風に、2が、パーテーションと床の隙間に隠れていたせいで、〈1月〉のカレンダーと錯覚した」
それがどうした、と言わんばかりの一同をゆっくりと見回す。
「一応確認しておきましょうか。この中で、カレンダーを動かした、という方は?」しん。
「はい。誰も触れていないのに、そんな変化が起きたということは、どういうことでしょう? 動いたのは、カレンダーじゃなく、パーテーションの方では――? と僕は疑いました。それをキッカケに考えを進めてみました」
玲於奈がちろりと舌を出す。
「皆をやり過ごした後、元の位置に戻したつもりだったんだけど……戻しが甘かったか。本番では、バミっておいた方が良さそうね」
いやいや、とアカネがおもむろに首を振る。
「カレンダーが隣の部屋に飛んでる、なんて誰も想定できないから。そもそも、あれは楓くんの不埒な行いのせいで」
途端に楓が慌てだす。
「アカネさん、それはもういいから!!」
*
外界に出ると、窓から射し込む自然光が柔らかくも眩しかった。
一時間ほどの体験だったが、実感としてはその2倍にも3倍にも長く感じた。
「脱出おめでとう」
黒ひげ社長――野巻清兵衛が拍手で迎えてくれる。
「結構かかったねえ。どうだった?」
「なんか全体的にズルいっす」
負け惜しみっぽく楓が言う。傍らの陽太も唇を尖らせている。
「ははっ。型にハマらない問題ばかりを揃えたからねェ」
「ちょっと、パパ」怒気を孕んで詰め寄るアカネ。「なんなのよっ、あの〈アカネちゃんの部屋〉は!?」
「面白かっただろ?」まあまあと娘を制して、「至らない部分については、アカネから聞いておくことにするよ。それより、ゲームクリアしたからには賞品を出さないとね」
楓と陽太がパッと表情を明るくする。
野巻氏はスーツの懐から水引袋を出し、読み上げた。
「目録、脱出ゲームをクリアした賞品としてお贈りします。賞品はなんと――『たこ焼き一年分』!!」
さあどうだ、とウインクする社長。
しらけた空気が充満していく。
「ちょっと、パパ」アカネが清兵衛の脇を突いて、「それ、前のゴルフ大会で貰った冷凍食品じゃないの? ブービー賞の」
「いいじゃないか別に。家にあっても誰も食べようとしないし」
「そういう問題じゃなくて!」
力なく項垂れた楓と陽太を、「いいじゃないたこ焼き」とカナが慰めている。日向にいたっては、深くうつむいたまま動かない。固く握った拳が震えていた。
「あの……ご、ごめんね? 水無月くん」
「…………」
「こんな賞品のために知恵を絞ってくれて……。ほんとごめんなさい!!」
「ぃやったああああああ!!」
茫然とするアカネの前で、日向は野巻氏の手をぎゅっと握る。「訊き間違えじゃないですよね!? たこ焼き『一年分』ですよね!? どれだけの量なんだろう。うわ~っ楽しみだなーっ!」
「じゃあ、君に全てあげよう。持っていけそう?」
「――僕が運ぼうか」
野巻氏の背後から登場した人物に、アカネの態度が一変する。
「田雲先生、なんでこここに!?」
颯爽と現れた田雲は、ちらと光を見やる。
「光ちゃんを送ってきたんだよ。うちの道場に寄ったせいで、約束に遅れてしまったみたいだから。そうしたら、野巻さんのお父さんに会って」
野巻氏は快活に笑って、「田雲先生とはゴルフ友達なんだよ。つい長話に付き合せてしまってね。ちょっとアカネ」景気の良い笑みを浮かべたまま、娘に何事かを伝言している。
「――じゃあ、そろそろ僕、失礼するよ。もともと直ぐに戻る予定だったし。日向くんの家に、たこ焼きを届けないとね」
「あ、わざわざスミマセン」
保冷箱をひょいと持ち上げると、恐縮する日向に手を振って、踵を返した。
「あっ! 先生帰っちゃったの!? パパにお小遣いをもらったから、皆でカラオケにでも繰り出そうと思ってたのにぃ」
アカネが未練がましく叫ぶ。
「ありゃ、光もいない?」
いつの間にやら、日向の横にいた光も消えていた。
「水無月くん、ふたりを連れ戻してきて!」
「野巻先輩、奢って貰っちゃっていいんですか」
「いいのいいの。モニターになってもらったお礼よ。さあ、楓くんも陽太くんも来る来る!」
背後に喧噪を聞きながら、命じられた日向は、光と田雲を追う。
献血ルームを通り過ぎたところで、見慣れた後ろ姿を発見した。
「あ、せんぱ」
「政宗」
呼びかけようとした声は、光の叫びにかき消された。
光のさらに5メートル先にいる田雲が立ち止まる。保冷箱を抱えた彼は、半身だけ振り返った。
「さよなら」
短い言葉に、田雲は目を細める。そして、いつもと変わらず柔和に応酬した。
「バイバイ。光ちゃん」
大きい歩幅で去っていく。光は動かない。肩が小刻みに震えているのに気付いて、日向は遠慮気に声をかけた。
「……先輩、野巻先輩が皆でカラオケに行こうって……どうかしました?」
光の次の行動は唐突だった。日向の胸に飛び込んできたのだ。
「えっ?……あ、あの」
訳が分からず戸惑う。
「大丈夫ですか……?」
胸に顔をうずめて表情を見せない光。弱った。ほとんど本能的な衝動で、日向は、その頭を撫でていた。小さな子にするように、2度、3度。
猫のような目をぱちくりさせて、光が顔を上げる。
「ああ、スミマセン」ぱっと手を退けて、「調子に乗り過ぎました!」
そこでようやく光は表情を緩める。
「どうしたんです。ほんとに……」日向はおそるおそる、「もしかして、カラオケが下手なんですか?」
「違う」
目尻を拭って、くすりと笑う。
「……たこ焼き一年分を独り占めなんてズルいだろ。私にも半年分よこせ」
「えっ!? 半年分はちょっと……三か月分で手を打ちませんか?」
「ケチだな」
「先輩こそ。意外と食い意地が張ってるんですね。駄目です、三か月のラインは譲れませんから!」
「うん……」嫌々するように、胸元に額を擦り付けられる。「わかったから」
そういえば。
『私たち、さ――』青い部屋でのやり取りを思い出す。
あのとき何て言おうとしてたんですか――? 尋ねようとした瞬間、遠くからふたりを呼ぶ声が近づいてきた。
「皆が来ますよ」
体を離そうとすると、磁石みたいに引き寄せられる。
抱きあったゼロの距離で、おそらく、出逢ってからはじめて純粋に、光は日向にあまえた。
「もう少しだけこのまま――お願い」
【end】




