ふたつ名
黄と黒が同盟を結んだ翌日、全 思風たちは机の上にある地図を囲んでいた。
地図は禿王朝全体を見渡せるものではあったが、いたるところに赤いバツ印がついている。その数たるや、とてもではないが数えていられないほどだ。
「殭屍が絡んだ事件、こんなにあったんだ」
さらりとした銀の髪を揺らした美しい子供が、地図を眺めて呟く。
右隣には黄族の代理長、黄 沐阳が立っていた。彼は頷き、黄族領土を指差す。
「ああ。結構……というか、ありえないぐらいあるよな。ここ一年で、こんなに起きてるなんてさ。俺もビックリしたぜ」
「でも、明るみに出てないやつもあるんだよね?」
尋ねれば、彼はうんざりした様子で肩を落とした。もう一度地図を見やり、休憩と称して背伸びをする。
「……報告が来てないだけで、細かなやつはもっとあると思うぜ? ただ、それら全てを拾ってったら日が暮れちまう」
関係のない情報も入っている可能性すらあるため、わかる範囲での確認となっていた。それでも数えきれないほどに起きている事件だったため、彼らは疲れを見せていく。
「國中で起きてるって事はわかるけど……それ以外は、何もわからないね。どうしよっか?」
子供の視線は黄 沐阳……ではなく、左側にいる全 思風へと注がれていた。
視線を送られた彼は首を左右にふって、ごめんねと子供の髪を指に絡めていく。回答できるほどの情報を持ってはいなかったこともあり、大切な子の期待に添えなかったのが悔しいと口にした。
情報が足りない状態では迂闊なことは言えない。それが彼の答えだった。
地図を人差し指の爪先で軽くたたく。コンコンという音が響くなかで、向かい側にいるふたりを注視した。
己の向かい側には左に黒 虎明、右に瑛 劉偉が立っている。
そんなふたりは、どちらも比較的整った顔立ちをしてはいた。けれど、お世辞にも親しみやすさを感じるような柔らかさはない。むしろ厳つく、気弱な者なら裸足で逃げてしまいかねない強面さがあった。
このなかで一番の年配者であろう瑛 劉偉は、常に眉間にシワを寄せている。
全 思風と同じぐらいの年齢であろう黒 虎明は、強者の姿勢を保っていた。
──このふたりが並ぶと、空気が重たくなるんだよね。……ん? あれ? そういえば……
「……ねえ爛 春犂、あんたはふたつ名を持ってないのかい?」
眼前にいる男を凝視する。
「全 思風殿、今の私は爛 春犂ではない。皇帝の使いの者で、瑛 劉偉だ」
「そんなのはどうでもいいよ。それよりも、さっきの質問に答えてくれる?」
「……どうでもよくはないのだが。まあいい」
半ばあきれを含むため息をついた。
「私は普段、偽名を使っている。本名で過ごせば、私の正体が明るみになり、事を運べなくなるからだ。そんな私がふたつ名など持てば、余計に動きにくくなるというもの」
わかるかと、細めた瞳で全 思風を嘱目する。
「そもそも私は、そのようなものに興味はない。魏 曹丕様の心残りを解消できれば、それでよいとすら思っている」
欲望に忠実な人としては珍しい分類のようで、地位や名誉にはまったく興味を示さなかった。それどころか、吐き捨てる勢いで否定をしている。
──こういう男はある意味で、尊敬されやすいんだろうね。ああほら、小猫が憧れの眼差しで見てるよ。
隣にいる愛しい子の視線は瑛 劉偉へと走っていた。瞳をキラキラとさせながら男を見、さすが先生と喜んでいる。
全 思風は目の前の男に嫉妬の怒りを送った。子供とすら思える仕草で眉を曲げ、ムッと唇を尖らせる。
そして毛艶のよい忠犬のように、華 閻李の肩を掴んで抱きよせた。そのまま男に向かってあっかんべーをし、子供へ構ってほしさ全快でじゃれつく。
そんな彼の性格を知っている瑛 劉偉と黄 沐阳は、ふたり揃ってあきれた様子だ。
しかしたったひとり。黒 虎明だけは、小首をかしげていた。そして……
「……ああ、なるほど。貴殿も、ふたつ名が欲しいのだな?」
明後日の方向の答えを放つ。
これには彼以外の者は、開いた口が塞がらなくなった。言われた当人である全 思風は苦笑いをしながら「ええー」と、困惑してしまう。
「貴殿ほど強い者がふたつ名を持たぬというのは、おかしい事だ。やはり持つべきだと、俺は考えている」
「……は? いや、別にいらないんだけど?」
「となれば、さっそく考えねばなるまいて!」
「ねえ、あんた人の話聞いてる!?」
「さて。何がいいか……悩むな」
「言葉通じないやつ、初めてだよ!」
黒 虎明はもともと、考えて動くというのが苦手な人であった。そのせいなのか……考えごとをすると、他者との会話を放棄する癖があるようだ。
黄 沐阳たちも言葉が出ないようで、大きくため息をついている。
「というか、私は本当にふたつ名なんて興味な……って、どうしたの小猫?」
通じない会話に頭を悩ませていたとき、子供に服の袖を軽くつつかれた。見れば少年はぶつぶつと呟いており、やがて満面の笑みになる。その微笑みを彼へと向け、くりくりとした大きな瞳に期待を乗せた。
「僕、思のふたつ名考えてみたい。……駄目?」
「うん、いいよ。遠慮なく考えておくれ」
鶴の一声ならぬ、愛する者の提案を、あっさりと受け入れる。先ほどまで、拒否していたとは思えないどの変わりようだ。
情けなく眉や口元を緩ませ、子供を抱きしめる。
──小猫が、私の名前を考えてくれる。それだけで、とても幸せだ。黄 沐阳が小猫を字で呼んでいたときは、すごく悔しかった。だけどこうして、大切な子に名前をつけてもらえる。呼んでもらえる。
それだけで幸せなんだと、子供を抱きしめ続けた。
「そうと決まれば、早く会合を終えないとね?」
子供から離れて視線を机へと移す。机の上に拡げてある地図を眺め、とある場所へと指を進ませた。
「……ん? ここに夔山があるけど……この辺りだけ、妙に多いね」
彼の言葉を聞き、全員が地図の右上あたりを凝視する。そこには山を中心に、他の場所よりも多くの赤いバツ印がつけられていた。
皆が地図に集中している最中、全 思風は側にある窓を開ける。冬の冷たい風を体に浴び、ふっと口角に笑みを浮かべた。
「私は一度、夔山へ戻ってみようと思う。もしかしたら、何かわかるかもしれないからね」
当然、ひとりではない。華 閻李も一緒だと、子供を手招きした。ぐいっと子供の細腰を包み、少年に向かってそれでいいかなとほくそ笑む。
子供は迷うことなく頷いた。
「ふふ、じゃあさっそく行こ……っ!?」
華 閻李の白い頬に手を伸ばしたとき、身の毛がよだつ。ピリリとした空気と、全身を突き刺すような感覚。
それらに嫌な予感を覚えた彼は、子供を強く包容した。次の瞬間──
ドンッという、地上から押し上げられるような地震が訪れる。縦、そして横に大きく揺れていた。
しばらくすると地震は収まり、体に感じる揺れはなくなる。
同時にバタバタと、何人もの足音が近づいてきた。それらは部屋の前で止まる。
「会合中、失礼いたします! 至急、お知らせしたい用件がございます!」
慌てた様子の声を聞き、黒 虎明が扉を開けた。そこには何人もの黒服を着た者たちがいる。彼らは一様に頭を下げていた。
黒 虎明が何事かと怒鳴る。
「も、申し訳ございません。ですが。急を要しますゆえ……」
彼らは一斉に顔を上げ、挙動不審に目を泳がせていた。
「申しあげます。王都の上空にて、大きな鳥籠のようなものが現れたとの報告が……」
黒 虎明たちは驚愕しながらざわつく。けれど全 思風だけは……
彼だけは、強く舌打ちをしていた。




