黄 茗泽(コウ ミャンゼァ)と白氏(はくし)
全 思風の瞳から溢れるのは、優しい眼差しだった。それは銀髪の子供に向けられている。
「小猫、よく頑張ったね。もう、大丈夫だからね」
低いけれど心にすっと留まる声で、子供に話しかけた。そして腕に抱えている華 閻李の体を縛る鎖、これを強く握る。
瞬間、彼の暗闇そのものだった瞳の色が朱へと支配された。
鎖をぐっと引っ張る。するとどうしたことか。鎖は音もなく粒子となって空気へと溶けていった。
全 思風は子供を横抱きにする。部屋の隅で呆然としている黄 沐阳の元へと進み、そっと床へと寝かせた。
黄 沐阳は疲れつつある体にムチ打ちながらも、子供へと駆けよる。
「おい華蘭、大丈夫か!?」
華 閻李を字で呼びながら子供の肩を揺すった。身綺麗にしていたはずの見た目がボロボロになっていても、それよりも子供の心配をする。
すると子供はゆっくりと腕を動かし、彼へと微笑んだ。霊力を奪われ、苦しいはずなのに、微笑みかける。
子供は意識すら朧気なままに、黄 沐阳を「黄哥哥」と、親しげに呼んだ。
そんなふたりを見、全 思風は瞳を細める。
──小猫を字で呼ぶのか。小猫も、この男を哥哥と言っている。……ああ、私が離れていた年月が悔しい。
全 思風の中では、どす黒く渦を巻く嫉妬心が芽生えていた。
ずっと、華 閻李という少年を愛しているのは自分だけ。他の者たちは少年を邪魔者扱いしていた。そこには字で呼ぶほど親しい者など、いるはずがない。
そう、決めつけてしまっていた。
けれど実際は違う。
字は親しい者や信頼する人、心から許した相手しか呼んではならぬものだ。それを目の前にいる男は、あっさりとやってのけた。
ひとえにそれは、華 閻李がそれを許している。
それはこのふたりが互いに信用し、友として認めた証でもあった。
──私も呼びたい。だけど……
まだそれを許されぬほど、全 思風と華 閻李の間には僅かな溝があったのだ。
それでも今優先すべきこと。それが何かを考えた。
「……黄 沐阳、小猫を頼めるかい? 今のこの子は霊力の消耗が激しい。あんたの霊力を、この子に分けてあげてほしい」
彼らに悟られるよう、下を向きながら唇を噛みしめる。嫉妬で狂いそうになる心を抑え、力なく伝えた。
彼の心境なとわわかるはずもない男は、黙って頷く。子供の手を握り、ありったけの霊力を注いでいった。
「……小猫を頼む」
言葉には覇気すら感じない。ふたりに気づかれることなく立ち上がった。そして、こんな状況を作りだした原因を直視する。
感情を消した朱き瞳が映すのは黄 茗泽だ。
中肉中背の体を、無理やり起こそうとしている。黄と白のきれいな漸層の漢服は、腹部あたりで赤黒く染まってしまっている。血を吐いては袖で拭き、激痛を味わいながら体を起こしていった。
「……黄 茗泽、いや。そいつに化けた白氏……とでも、云うべきかな?」
絶対零度の声が部屋全体を走る。
黄 茗泽とする男は、ひゅーひゅーと荒い呼吸を繰り返した。血が溢れてている腹部を押さえながら、後ろの台座に背をつける。
「ふ、ふひひ。何を、言っているんだ? 私は黄族の長、黄 茗泽で……」
「そんなに内戦を焚きつけたいのか?」
首を左右にふり、眼前の男を鋭く睨んだ。
コツコツと、足音をたてながら男へと近づく。
「け、けけ。わ、私が偽物という証拠などありはしないのだろう!? だったら、私は本物で……っ!?」
そのとき、男のよく喋る口が閉じた。驚きながら両目を血走らせ、全身を震わせてしまう。
よく見れば全 思風は手に小さな鈴を持っていた。それを軽く鳴らせば、美しくて透明な音がする。
「ああ、気づいたかい? そうだ。これは白氏を作りし仙女、花 凛鈴が愛用していた道具だ」
鈴を鳴らした。すると黄 茗泽は苦しみだし、その場にのたうち回ってしまう。苦痛に耐えながら、人間とは思えない雄叫びをあげた。
すると、どうしたことか。黄 茗泽だったはずの男の見目が、どんどん変わっていった。次第に全くの別人の姿へ変貌した。
現れたのは黄 茗泽とは、似ても似つかぬ男である。細い目、高くもない鼻。その鼻の右側には大きな黒子があった。痩せ型で、一見すると人当たりがよさそうな……裏を返せば、信用すらしてしまいそうな顔立ちの男である。
漢服から靴まで、その全てが白色だ。
「……へえ、なかなかに効果あるんだね。この[明真の鈴]は」
しかし彼は男を見ても、さして驚いた様子はない。むしろ鈴の方に興味があるようだ。男を無視して、鈴ばかりを観察している。
「……な、なぜ、貴様がそれを持っている!?」
男は息も絶え絶えに、喉の奥から叫んだ。
「それは、我らの尊きお方の宝具だぞ!?」
「はあ? 知らないよそんなの。私には関係ない事だしね」
眉を歪ませながら、男の剣幕をはねのける。うるさいなと、右手の人差し指を前に出した。黒い渦を指先に絡めつかせ、男目がけて疾走していく。
それに捕まった男は口を塞がれ、その場でジタバタともがいた。
「ああ、云っておくけど、これは私が持ってたんじゃないよ。ここに向かう直前に、あの男に渡されたんだ」
「むー! むー!」
よほど、彼の持つ鈴が気になるのだろう。塞がれた口のせいで言葉を放つことすらできないようだが、それでも男はもがきつづけていた。
「そうそう。あの男って云うのは……うん?」
いつの間にかいつもの調子を取り戻した彼は美しい顔に、少しばかりの意地悪な笑みを浮かべる。
そのときだった。天井だけが振動した。木片が落ち、やがて屋根が丸ごと部屋の中へと落下してしまう。
これにはさしもの全 思風ですら驚愕し「は?」と、すっとんきょうな声をあげた。
「──ようやく追いついたぞ! おい、貴様! 俺との会話の最中に逃げるとは何事だ!」
つらつらと、空気を読まない言葉が飛び交う。
低い声の主は我が物顔で声をあげ、全 思風を見つけては、彼を指差していた。
頭痛を覚えた全 思風は、あきれたため息をつく。片手で顔を覆い、脱力した。
「…………いや、何で追いかけてくるんだい? 黒 虎明」
けれどこのままでは話が進まないとわかっていたので、急いで顔をあげる。声の主──黒 虎明──を見、遠い目をしながら名を呼んだ。




