過去と疑問
全 思風の心は不安で押し潰されていった。大切な存在である子供が危険に曝されているからだ。
そう思うだけで、死んでしまいたい。精神がバラバラになりそうだと、唇を強く噛みしめる。
「──小猫、無事でいて!」
屋根の上を飛び続け、目的地の屋敷へと到着した。危険を省みず、扉を豪快に壊す。
中に入ればそこは玄関口だった。
一階は入り口近くに左右の扉、奧にもふたつある。部屋の中央には朱の絨毯を敷いた階段があり、天井には異国からの輸入品だろうか。大きな枝形吊灯がぶらさがっていた。
「……最初に侵入したときは地下からだったからわからなかったけど、もしかしてここは、元妓楼なのか?」
心を落ち着かせようと、両目を閉じる。
──ああ、聞こえる。視える。ここで何が起きたのか……
全 思風が目を開けた瞬間、彼の瞳は朱く染まっていた。そして映し出されるのは、今ではなく過去の映像である。
建物の構造、中の物の配置などは同じだ。違いを見つけるとすれば、人の姿があるかないかである。
そして過去の映像には、きらびやかで美しい衣装を纏う女たちが行き交いする姿が視えていた。
数えきれぬほどの美女、そんな彼女たちと金と引き換えに遊ぶ男たち。仲良く腕組みしている男女もいれば、女性に言いよっては出禁を食らう者。年配の妓女の言いつけで掃除をする若い女など。
当時、この妓楼で暮らしていた女性たちの姿が、ありありと映っていた。
「そういえば小猫が言ってな。妓楼には年配の妓女頭がいて、その人が妓楼を仕切ってるとか何とか……」
──ということはあの年配の妓女が、ここで一番偉い人ってことか……ん?
転瞬、光景が一瞬にして変わっていく。華やかだった世界のはずが、寂れて蜘蛛の巣まみれになっていった。
そのとき、階段上から怒号が聞こえてくる。見上げればそこにいたのは若い女がひとり、雰囲気の違う男がふたり立っていた。
ふたりいる男のうちのひとりは大男で、強面である。腕を組みながらもうひとりの男を睨んでいるようだ。
もうひとりは中肉中背の若者である。大男とは違い、常におどおどとしていてた。裏を返せば優男である。
女性はハラハラとした様子で、ふたりの男を交互に見やっていた。
「……痴情のもつれか? くだらないな。それよりもあの男ふたり……」
どこかで見たことがある。
そう、呟いた。
しばらくそれを眺めていると、ふたりの男の言い争いは激しくなっていく。大男は女性の肩を掴み、自身の胸板へとよせた。
「相変わらず、情けない男だな。そんな事で、愛する女性を自分のものにできると思っているのか?」
大男が、その体格を裏切らないほどの野太い声を放つ。
「情けない。本当に情けない男だな、貴様は。なあ、黄 茗泽」
大男の口が酷く歪んだ。
もうひとりの男、黄 茗泽は返す言葉を失う。悔しさを握り拳に乗せ、下を向いた。
ふたりのやり取りを視ていた全 思風は驚愕する。
──黄 茗泽って確か黄族の長で、内戦を率先してたやつだよね? どういうことだ?
それにと、大男の顔を黙視した。
──やっぱりあの男も、どこかで会ってる気がする。つい最近……なような、感じもするけど。
大男の見た目に覚えがあるが、どうしても出てこない。モヤモヤとした気持ちを抱えたまま、またもや場面が切り替わっていった。
どうやら今度は争いの原因となっていた妓女と、黄 茗泽が階段の上で向かい合っている場面のよう。ふたりの隣には妓女頭である、中年女性もいた。
「こ、これだけあれば、彼女を買えるんだろ!?」
額を汗まみれにし、妓女頭へと袋を渡す。妓女頭はふむっと、袋の中身を確認した。
「……確かに、言った通りの金額のようだね。いいだろう、英 李蘭。今日からあんたはこの男、黄 茗泽のものだよ」
いいね? と、女性の背中をそっと押す。女性こと英 李蘭は頬を赤らめ、華のように微笑んだ。そして最後に妓女頭へと抱きつき「お世話になりました」と、涙を流す。
「何、泣いてんだい。さあ、おいき。幸せになるんだよ? それから、あんた!」
妓女頭に睨まれた黄 茗泽は、慌てて背筋を伸ばした。
「この子を幸せにしてやるんだよ!? 不幸になんてしたら、許さないからね!」
妓女頭の気迫に怯えた彼は、素早く何度も首を上下に動かす。そして英 李蘭の元へと赴き、深呼吸をした。
「わ、私と結婚してほしい!」
この言葉に彼女は両手で口を隠しながら、涙をポロポロと落としていく。喜んでと、幸せそうな微笑みを浮かべた。
瞬間、過去のできごとは終わりを迎える。砂嵐が舞っているかのように周囲が見えなくなった。けれどすぐにそれは収まり、ひと気すらない妓楼へと戻っていた。
全 思風は、ゆっくりと考える。
──黄 茗泽が身受けした女、多分今は妻になってるんだろうな。まあ、この男がその女を殺したって話だったようだけど。愛する女を殺す男、か。
自身には華 閻李という、愛してやまない子がいる。その子の幸せのためならば、彼は何でもした。けれど黄 茗泽のように殺すという気持ちだけは、受け入れることができずにいる。
「私は小猫を殺したいわけではない。むしろ、生きていてほしいからこそ、側にいる」
ゆっくりと、足音すらたてずに朱い絨毯の上を歩いた。階段を登り、吹き抜けのようになっている二階から一階を見下ろす。
天井からぶら下がる、明かりのついていない枝形吊灯を凝視した。
「……最後まで、もうひとりの男が誰なのか。それがわからなかった。でも確かに、どこかで会っているはずなんだけどなあ。それに……」
二階の左右の扉を交互に見張る。
「あの黄 茗泽という男、金で手に入れるほどに欲した女を、なぜ殺すんだ? 何よりもこの場所……建物が古いわけでもなければ、事故物件とかでもないだろうに」
どうして誰もいないのか。それらが気がかりではあった。しかし彼の一番の目的は、大切な子を探すことだけ。その他のことなど二の次である。
そしてまあいいかと、易々とわりきった。
瞬間、二階や一階の扉が一斉に開く。そしてそこから数えきれぬほどの殭屍が現れた。見れば、記憶の中にいた妓楼頭もいる。それ以外にも上半身だけ裸の男、薄い布を肩からかけて男根を晒けだす者もいた。
きれいに着飾った女もいれば、最中だったであろう姿の者もいる。
その誰もが土気色の肌に、血管を浮かび上がらせていた。
「……ああ、静かなわけだ。全員、殭屍になっていたようだね。でもおかしいな? それなら私は感知できるはずなのに……」
軽口をたたきながら、左右の手から黒い煙のようなものを出す。それを二階、そして一階の扉から出てきた殭屍たちの体へと巻きつけた。化け物らは全員空中に浮かんでしまう。ジタバタともがきながらも唸り続けていた。
「うーん。どうやらここは、私の常識が通用しない場所のようだね」
殭屍たちを煙のようなもので捕まえながら、首をひねる。やつらをその体勢のままにし、懐にしまってある彼岸花を取り出した。
「小猫の居場所を探ろうにも、この彼岸花は、うんともすんとも言わないんだよね。……ああ、こうしている間にも、小猫が危険な目にあってるかもしれないっていうのに」
駄々をこねる子供のように地団駄を踏む。ふと、何かを思い出したかのように動きを止めた。
「あれ? そういえば、前も似たような事あったな。あれは確か水の町で……って、うわっ!」
手に持つ彼岸花が光りはじめる。そして宙へと浮き、階段の一階と二階の間にある壁の前で花びらが散っていった。
彼は慌てて花びらを全てを掴もうとするが、泡となって消滅してしまう。
「……っ!」
花を操る華 閻李の身に、更なる危険が浴びせられた。
焦りからくる冷や汗すら、拭う余裕はないのだろう。彼はひたすらに、壁へと拳を振り落とした。




