鬼人(きじん)
字
中国では男性ひとりにつき、いくつもの呼び名がある。その内のひとつがこれで、年上に対して使う言葉。ただしこの作品は親しい者という意味で使っている。ようはあだ名
全 思風は剣を鞘に収め、ふっと美しく笑む。
眼前にいるのは先ほどまで場を独占していた男、黒 虎明だ。彼は苦虫を噛み潰したような表情をし、これでもかというほどに怒りを顕にしている。
「……な、んだ。何だこれはーー!?」
その場を支配していた直後、焔が消化されていったからだ。
何の前触れもなく現れた全 思風だけでも手に負えないというのに、上空から降る蓮の花。その花から雨のように水滴が降り注いでいるからである。
花は仄かに甘い香りをさせながら焔を消し去っていった。しばらくすると辺り一面に焦げた匂いだけが充満し、蓮の花は泡となって天へと昇っていく。
「くそっ! どうなっている!? 貴様、何をしたーー!?」
まるで、腹から声をだしているかのような怒号だ。
大剣を強く握り、勢いをつけて地を蹴る。風のように疾走し、剣で空を斬った。
「朱雀の焔を消せる者など、この世にありはしないはず!」
全 思風を斬りつけようと、空に豪快な一閃を放つ。重みのある大剣が瓦礫を削り、蹴散らしていった。
しかし、それでも、全 思風は何の痛手も負っていない。眠そうにあくびをしながら、右手で持つ剣で応戦した。
互いの剣がぶつかり合い、金属音が響く。
「……ふわぁ。ねえ、まだ続けるのかい?」
呼吸が乱れ、額から汗を滲ませる黒 虎明に対し、彼は心底眠たそうにしていた。緊張感感などありはしない態度で大剣を受け止めていく。やがて飽きた様子で、男の大剣を刃ごと片手で止めた。
ミシミシと、固い金属であるはずの剣が悲鳴をあげる。そして瞬く間に、黒 虎明の大剣は粉々に砕かれてしまった。
「なっ! 馬鹿な!? 俺の愛剣は、有名な鍛冶職人が作って……っ!?」
言葉を言い終える前に、全 思風によって吹き飛ばされてしまう。
吹き飛ばした本人である彼は、戦闘中に目を離したお前が悪いと云わんばかりに鼻で笑った。
瓦礫の中に埋もれた黒 虎明の腕を掴み、無理やり引っぱりだす。感情のない瞳を向けながら男を放り投げ、近くに控えている黒族の兵を凝望した。
当然のように彼らは怯え、我先にと黒 虎明を置いて逃げていく。
「あーあ。逃げちゃったよ……あんた、部下から信用されてないんじゃないの?」
たったこれぽっちのことで腰を抜かした。あまつさえ、指揮官である男を置き去りにしたということ。これは言い逃れなどできないことだと、吐き捨てた。
黒 虎明はぐうの音も出ないよう。俯き、地面を叩いていた。瞬間、男に髪の毛を捕まれてしまう。そのまま引きずられていった。
「貴様、はな……がはっ!」
「羽虫ごときが五月蝿いな」
口答えなど許さない。そんな気迫を声にもたせ、全 思風は再び男を引きずった。瓦礫や、焼け焦げた人間にぶつかろうとも、引きずり続ける。
「……私はね。怒ってるんだ」
行き止まりに差しかかった。そこへと男を投げ捨て、見下ろす。自身の体から黒き焔を出現させ、ボロボロになった黒 虎明を指差した。瞬刻、黒き焔は男を縛りつけるように、全身へと絡んでいく。
「ぐっ……あああ!」
骨の砕ける音とともに、男から悲鳴が放たれた。
それでも意識を失わないのは流石というべきか。横に倒れながらも、全 思風を睨んでいた。
「小猫と一緒にいれたのに」
けれど彼は、その睨みすら気にも止めていない。華 閻李という美しい少年のことだけを浮かべ、語りを入れた。しかし……
「それのなのにさ……」
一瞬にして雰囲気が変わる。美しい外見そのままに、凶悪なまでの笑みを口に乗せていた。
「お前が中途半端に来てしまったから、離れなくてはならなくなったんだ!」
どうしてくれるんだと、子供のように駄々をこねる。
「あの子は優しいからね。本当はどうでもいいはずなのに、黄 沐阳と一緒に、黄 茗泽を説得するんだって言ってさ。私よりもあんな男を選んだんだ」
信じられないよと、怒りの矛先を男へとぶつけた。右手を握れば、男の体に巻きついている黒き焔が、さらに勢いを増す。
耳を塞ぎたくなるほどに、男の絶叫がその場を走った。
全 思風は悪魔のような笑みを浮かべながら、最後の仕上げとして黒き焔に「殺れ」と命じた。
「……っここまでか!」
黒 虎明が覚悟として両目を瞑る。
そのとき、どこからともなく赤い花がふたりの間に落ちてきた。それは根に毒を持つ彼岸花だった。
全 思風はふっと表情を和らげ、彼岸花を両手で優しく包む。すると花びらが青色に変化した。
かと思えば、残酷なまでに相手を睨んでいた瞳は弱まる。背中を丸めて、ううっと項垂れた。
「小猫、駄目なのかい?」
彼岸花にそっと話しかける。花は静かに鈴のような音色を奏でた。瞬間、一枚の花びらが彼の頬に触れる。
するとどうしたことか。傍若無人な態度から一転、ヘコヘコと頭を下げては低姿勢になっていた。
「わー! わー! そんなに怒らないで小猫! わかったから! 私が悪かったから! ね!?」
花びら相手に独り言を叫ぶ。しばらくするとそれは収まり、彼岸花を大事そうに布でくるんだ。それを懐にしまい、黒 虎明を直視する。
深いため息をつき、黒き焔で拘束していた男に自由を与えた。
わけもわからぬまま解放された黒 虎明は、両目を丸くする。
全 思風はそんな男を見やり、再び黒き焔を具現化させた。そして大剣へと黒き焔を伸ばし、無造作に男の元へと投げる。
「あんたは殺さない。小猫に嫌われたくないからね。それよりも……」
男を凝視した。
散々、彼に痛ぶられた体は傷だらけである。髪もボサボサで、漢服にいたってはあちこちが破られてた。
──私がやったことだから仕方ないけどさ。これを見たら小猫、怒るだろうなあ。
トホホと、後先考えずな自身を反省をする。
「さっきあんた、聞き覚えのある名前出してなかった?」
「は?」
突然なんだと、男はすっとんきょうな声をあげた。
全 思風は構わず続ける。
「友中関にいた男がどうのこうのって……確か、潮健って言ってなかった?」
「……雪明の事か」
男は一瞬の戸惑いを見せた。
「ふーん。※字で呼ぶほどに親しいんだ。まあいいや」
名前はどうでもいいんだと、男へと向き直る。
「あんたが言ってた潮健って人について、私たちは少しだけ知ってるよ。死に際の話だけどね」
「何!? ではお前、友中関にいたと言うのか!?」
ボロボロになりながらも起き上がり、彼の両腕を掴んだ。強く揺らしながら、友のことを教えてくれと懇願する。その瞳は先ほどまでの強さを秘めたものとは違い、とても弱々しく感じた。
全 思風とて、鬼ではなかった。隠しておく必要がないという方が正しいのだが、それでも無条件でというのは些か気にくわないといった様子である。
ふと、何かを思いついたようで「ああ」と、呟いた。
「あんたの知ってる事を教えてくれない? なぜ戦争なんか始めたのか。友中関の事件の真相も必要かな?」
足元を見るような条件である。
男は彼から手を離し、静かに頷いた。大剣を拾い、腰にかけてある鞘へとしまう。
近くにあったちょうどいい大きさの瓦礫に腰かけ、淡々と告げていった。
「──友中関での殭屍事件。あいつの……友の死を、それを調べたんだ。雪明がいたあの関所は、結界が厳重に貼られていた。しかしあるとき、黄族の者たちが結界を壊したんだ」
陽の札を陰に変える。それだけで、そこは化け物の住み処になってしまう。
黄族はそれを実行し、あの関所の事件を引き起こした。それは間違いないと、真剣な面持ちで口述する。
「俺がそれを知ったのは他でもない。やつらが札を作り替えたとき、俺は、あの関所にいたからだ」
黄族の者たちが札を陰の気に変えた翌日、男は仕事のために王都へと戻ってしまう。その結果として、数日後に悲劇が起きてしまったのだと、悔しさを堪えて語った。




