地下通路
合流した全 思風が呼び出した少女は、水の妖怪であった。名を水落鬼といい、溺れた者たちの念が姿をとったとされる妖怪である。
そんな少女の姿をした妖怪はにっこりと微笑み、三人の前で両手を大きく広げた。瞬間、全 思風たちの体に水が降り注ぐ。けれど冷たくはない。むしろ、お湯のように温かかった。
やがて水落鬼は水溜まりへと変わる。同時に、三人の体を薄い膜が包んでいた。
「水落鬼の水は、人間の視界から見えなくする力があるんだ。最低一日はもつから、その間にやれる事をしてしまおうか」
淡々と語り、華 閻李の小さな手を握る。鼻歌を披露しながら余裕のある顔で広場を横切った。
その際、華 閻李と黄 沐阳のふたりは、見つかるのではとおっかなびっくり。けれど水落鬼の水の膜が作用し、兵たちの前を通っても武器すら向けられることはなかった。
そのことにふたりはホッとする。
「思、地下通路に行くのはわかったけど、どうして廃屋の裏手なの?」
他にはないのと、純粋な眼差しで尋ねた。
「聞いた話だと、この町はあちこちに地下通路があるらしい。だけど中から鍵がかかってるらしくてね。唯一外から入れるのは、廃屋の裏手にあるやつだけなんだってさ」
広場にある細道を抜け、何度か曲がる。数分後には、廃屋のある地区に到着していた。
廃屋の裏手へと向かえば、河がある。河の近くには崖があり、そこにひとつの穴があった。一見すると洞窟のようなそこには、地下へと続く階段が見える。
全 思風は先頭に立ち、穴の中へと足を踏み入れた。
コツコツと。三人分の足音が鳴り響く。
彼らがいるのは地下通路ではあった。しかし岩の壁などからして、人工的かつ、洞窟のような作りになっている。明かりはなく、かなり暗い。ときおり頭上から水滴が落ち、そのたびに被害にあった者が叫んでいた。
そんな洞窟を進む全 思風は手に提灯を持っている。続いて華 閻李、殿は黄 沐阳が務めていた。
しばらくすると、先頭を歩く彼の足が止まる。後ろに控えているふたりは、どうしたのかと不安な様子だ。
「ここから先は、道が細くなってるらしい。気をつけて進もう」
彼の三つ編みが、うっすらと提灯の光に照らされる。
再び、三人分の足音が木霊した。
「……ねえ小猫」
「ん? なあに?」
華 閻李の細い手を握りながら前へと進む彼は、ふとした瞬間に立ち止まる。通路は狭いため、大柄な彼では振り向けるほどの余裕はなかった。それでも伝えたいことがあると、提灯を少し高く上げる。
光が向けられたのは子供……ではなく、その後ろにいる黄 沐阳であった。
黄 沐阳は突然のことに目を閉じ、眩しいと訴える。
そんな彼を凝視する全 思風の瞳は非常に冷めていた。普段子供へと向ける優しい眼差しなど微塵もなく、深い闇そのもののよう。舌打ちまでして、あからさまに邪魔者扱いをしていた。
「……何でこんな奴、助ける必要があるのさ?」
不機嫌丸出しである。それでも口を尖らせることをやめず、ひたすら黄 沐阳を睨みつけた。
鋭い視線と、あからさまな敵意に、当然のように黄 沐阳はたじろぐ。
「えー? 僕か助けたいって思ってるから、かな?」
空気を読んでいるのか。それとも読めないのか。どちらともとれる、子供の明るい声がこの場を走った。威嚇にも似た姿勢をとる彼を叱る。
「……だけど小猫! こいつは君を襲ったんだよ!?」
怖い目にあわされた。それなのになぜ、この男を庇うのか。それがわからなかった。
珍しく感情をむき出しにし、黄 沐阳という男をさげすむ。
「……お、俺だって、あんな事したくなかったさ! だけど何でか知らねーが、こいつを見てたら感情か抑えされなくなって!」
苦しい言い訳だった。けれど彼自身、あのことについては深く反省しているらしく、本当にごめんと、何度も子供に謝っていた。
「あの時は女を見た瞬間に、俺の体は突然火照っちまった。普段はそんな事ないのに……だからお前を見れば、その火照りが治まるんじゃって思って」
どちらにせよ、襲ってしまったことには変わらない。許されることではないにせよ、あの時は体がおかしかったんだと叫んだ。
「…………ん? 火照りが突然現れた? それ、本当なのかい?」
「え? あ、ああ……お茶を飲んだ瞬間に、体が熱くなって……」
「…………」
何か、思い当たる節があるのか。全 思風は黙りこんだ。
「……もしかしてだけどさ。それって、媚薬を盛られたんじゃないの?」
確信などはない。けれど状況などから察するに、媚薬が入った茶を飲んでしまった可能性は高いとされた。
「証拠すらないから、何とも言えないけどね」
それよりと、黄 沐阳のことなど眼中にないと云わんばかりに、話題を変える。
少し拓けた場所に到着するや否や、華 閻李の腕を軽く引っぱった。隣を歩かせ、目の届くところに落ち着かせる。
「本来の目的の話になるけど。復習しておかない? 一度、情報を整理した方がいいと思うんだ」
隣を歩く子供の頭を撫でた。そして一歩前へ踏みだし、階段を指差す。
「この階段を登れば、目的地の建物の地下一階に出る。そうなったら、呑気にお話なんてしていられないからね」
黄 沐阳を一切見ることなく、子供だけに視線をやった。
「戦争の発端や、黄と黒の争いについては現状よくわからないからね。それは今回、省こう。私たちが考えなくてはならないのは、黄族で起きた事だ」
今度は、ともにいる男を見張る。
黄 沐阳は頷き、ひとつひとつを語っていった。
最初の事件は、現当主である黄 茗泽が帰宅したときから始まっていた。
王都から戻ってきたとき、黄 茗泽は別人のようになってしまっていた。
本来の当主は温厚で争いを嫌い、妻にはいつも頭が上がらない。そんな男だったそうだ。しかしそれが嘘かのように、妻の首を刎ね、率先して戦争への参加をしてしまう。
母親が死んだ苦しみに耐えきれなくなった黄 沐阳は、それを追及した。しかしそれがいけなかったのか。
抗議をした瞬間、拘束されてしまう。そのまま目隠しでどこかへと連れていかれ、薄暗い部屋に軟禁されてしまったのだ。自力で脱出したまではよかったが、黄 茗泽の隣には自分とそっくりな男が立っていた。
「あいつは偽物だ。俺が……本物なんだ」
言葉に確信を持てぬようで、声が小さくなっていく。
「……あんたが本物かどうかは、私にはわからない。興味もないしね。ただ……」
踵を返し、長い三つ編みを揺らした。階段を登り、先にある扉の前に立つ。
「あんたの父親の黄 茗泽も、偽物って考えられないかい?」
あり得ない話ではなかった。
黄 沐阳にそっくりな存在が本人に成り代わっている。もしそれが本当ならば、父親の方もその可能性は捨てきれなかった。
全 思風の口から、淡々とした笑みだけが零れていく。
美しいけれど、棘だらけ。
そんな笑みだった。




