潜入
黄 沐阳を説得した華 閻李は、彼とともに広場の裏手へと向かった。
そこは野良猫や鼠などが徘徊し、お世辞にもきれいとは言い難い場所である。それでも彼らはここを選び、ふたりで兵たちを観察した。
「──爸爸たちはここから見える、あの建物の中にいるはずだ」
黄 沐阳は、広場の先にある大きな建物を指差す。
柱や壁は朱い、二階建ての建造物だ。屋根の角は尖っており、どことなく独特な雰囲気がある。その建物の前には寺があり、角度によっては後ろの景色を隠してしまっていた。
「あの変わった形の屋根の建物、あそこに爸爸たちが住んでるって話だ」
ただなあと、困った様子で肩を落とす。
「建物の警備が厳重で、中には入れねーんだ」
「……屋根の上からとか、窓から侵入は?」
子供の提案に、彼は首を縦にはふらなかった。言葉を濁し、口を尖らせている。
「──小猫、それは無理だよ」
ドスンっと、突然、華 閻李の体が重くなった。原因を調べようと、子供は急いで振り向く。
するとこそには三つ編みの美しい男、全 思風がいた。どうやら彼は子供の両肩に全身を預けているよう。子供が重いと言っても、一向に退く素振りを見せなかった。甘えるように少年の腰を後ろから包み、薫りを堪能している。
そんな彼の唐突すぎる登場に、黄 沐阳は腰を抜かしていた。
華 閻李は慣れた様子で、彼の好きにさせている。
やがて、手を離してとやんわり伝えた。
全 思風は悪戯に満足したかのように、満面の笑みで子供の隣に並ぶ。
「もう、思! 人前では駄目って何度も言ってるでしょ!?」
「えー? だって、抱き心地抜群の小猫がいけないんだよ?」
「僕のせいにしないの! そういう事じゃ、ないでしょ!?」
「いいや。そういう事だよ。そもそも、こんなに小さくて愛らしい姿なのがいけないんだ」
子供の細腰を引きよせた。美しい銀色の前髪を横へとやり、そっと額に唇を落とす。頬、手の甲、首筋と、服からはみ出ている箇所を狙って優しい口づけをしていった。
最後には子供の長い髪を指に巻きつけ、ふふっと微笑する。
「……もしかして、怒って……る?」
おずおずと。隠れているようにという言いつけを破ってしまったことへの制裁を恐れた。大きな目に涙を溜め、ごめんなさいと萎れてしまう。
けれど彼は、微笑みながら首を左右にふった。
「怒ってないよ。小猫は優しいし、放っておけない性格だというのは、知っているからね」
むしろ、そんな子供をひとりにしてしまったことへの罪が自分にはあると、反省の色を示す。
「……思」
「私はね? 小猫に傷ついてほしくない。だからと言って、縛りつけてしまう事もしたくない。自由に、小猫が思うがままに動いてほしい。ただ、それだけなんだ」
視線を子供から、建物へと向けた。彼の長い三つ編みが風に靡く。
それに魅入るように、華 閻李は少しばかり頬を紅へと染めた。
「……あの建物、かなり厳重に結界が貼ってあるね。窓や屋根から侵入しようものなら、速攻で捕まってしまう」
凛とした、低い声が木霊する。両目を細めて注視するのは、彼らが目指す場所だ。
すると今まで蚊帳の外だった黄 沐阳が、どうするんだよと人任せに問う。
瞬間、全 思風の両目が細められた。宵闇のように濃かった暗黒は、朱く塗られていく。
子供とともにいる男を見、興味なさげに視線を外した。
「地下通路から行けばいい」
「地下通路?」
黄 沐阳、そして華 閻李の声が重なる。
全 思風は頷き、地面を指差した。
「話を聞いてきたんだけど、どうやらこの町は地下で繋がっているらしい。私たちが避難民と過ごしたあの場所。あの廃屋の裏手には、地下へと続く隠し通路があるそうだ」
一旦、あの廃屋へ戻る必要があることを伝える。
腰にかけてある剣を抜き、右手の親指をツプッと刺した。そこからは当然のように血が流れていく。けれど彼は、さも当たり前のように平然とした面持ちで笑っていた。
「──さあ、出ておいで。私たちを、姿なき存在へと変える者よ」
息を吐くように、ふぅーと血を飛ばす。瞬刻、血は空中に紋を描いていった。赤黒く、それでいて美しい。そんな紋である。
しばらくすると紋はゆらり、ゆらりと、風でも吹いているかのように揺れた。そのとき、紋から鈍い音が聞こえてくる。
これは何かと、全 思風以外のふたりは小首をかしげる。
彼はふたりの姿にクスッと微笑し、視線を紋へと戻した。揺らめき続ける紋に触れ、まるで扉を叩くかのようにコンコンとする。すると、どうしたことか。空中を漂う紋からにゅっと、手のようなものが出てきたのだ。
水の塊。ともすれば、透明な杏仁豆腐のような柔らかさと、プルプル感をもつ何かである。それはうんしょ、うんしょと、女の子のように高い声を出していた。
数秒後、声の主とともに小さな女の子が姿を見せる。子供といっても非常に小さく、赤子のよう。けれどしっかりと立っていた。
頭の天辺から爪先まで、全身が青く透明な何かになっている。服は、あってないようなもの。頼りなく薄い布で体を包んではいるが、体と一体化してしまっていた。
「私たちはこの子の力を借りて、これから地下通路へ向かう」
透明な子の頭を撫でる。そのたびにプルっという、なんとも奇妙な音がまぎれて聞こえた。
「この、水落鬼の力を借りてね」
水落鬼と呼ばれた女の子は、とてもかわいらしく無邪気に微笑んでいた。




