もうひとりの自分
突然、華 閻李は口を塞がれ、薄暗い場所へと引きずりこまれてしまった。
子供は何が起きたのかわからず、ひたすら踠く。口を押さえている誰かの手にガブッと噛みついた。
「いってぇ! こいつ、噛みやがった!」
かん高くはない声を聞き振り返る。そこにはある男の姿が目に映り、華 閻李の目は大きく見開かれた。
「な、何であんたがここに……!? 黄 沐阳!」
外壁に背をつけ、男から距離をとる。
──さっきまで櫓のところにいたはずなのに。何でここに……というか、何で僕がいることに気づいたんだ!?
ガタガタと全身が震えた。
かつて黄 沐阳に襲われ、黄家を追い出されてしまった。その際、子供は恐怖を味わった。追い出されたことへの恐怖ではない。襲われ、全てを喪うということへの恐れである。
そのことが華 閻李の心の中にずっと棘を刺していた。
原因は全て、眼前にいる男──黄 沐阳──である。
「……ふんっ!」
彼は反省をしているのか、それともいないのか。どちらともとれる姿勢でそっぽを向いた。しかしすぐに華 閻李を注視し、盛大なため息をつく。
めんどくさそうに頭を搔き、軽く舌打ちをした。
「…………」
華 閻李は警戒を緩めない。ジリジリと彼から離れ、大きな目で睨んだ。
「何で、何で戦争なんかに参加して……」
「俺はしてねぇーよ!」
怒号ではあったが、声は大きくない。むしろ控えめで、何かから隠れているような。そんな雰囲気があった。顔を下へと向かせ、両手を震わせていた。
「爸爸がこんな戦争に参加するなんて、おかしいんだ。俺は止めようとしたのに、爸爸は聞いてくれねえー」
顔を上げる。泣いてはいないが、瞳が潤む様子が見てとれた。華 閻李へと視線を向けたまま、指先だけを広場へと走らせる。
そこには笑顔を振り撒く黄 茗泽がいた。そして隣には……
黄 沐阳がいた。
驚いた子供は目の前にいる男と、広場にいる黄 沐阳を交互に見張る。どちらも姿形は同じで、どちらもが華 閻李の知る男だ。
けれどそれはおかしなことだと、少年は知っている。
「ど、どういう事!? 黄 沐阳がふたり!? え!? ふ、双子とか……」
「んなわけねーだろ。俺がひとりっ子だって、お前だって知ってるだろ?」
ふたりは広場にいる、黄 沐阳を見つめた。
「……お前、俺と爛 春犂が妓楼に現れたときの事、覚えてるか?」
濡れ衣を着せられた華 閻李が逃げた場所、それが妓楼である。逃げたといっても、自分から妓楼に行ったわけではない。そこで働く女性たちに助けられたのだ。
妓楼に住んで少したった頃、黄 沐阳を連れた爛 春犂が顔を見せる。彼らは夔山の麓の枌洋の村で再び起きた事件を解決するため、子供がいる妓楼へと訪れた。
それを懐かしく思う反面、大変な冒険だったなと肩を落とす。
「覚えてはいる、けど。それが今起きてる事と、どう関係してるの?」
結びつくものがないよと、小首をかしげた。
黄 沐阳はうっと言葉を詰まらせ、耳まで真っ赤にして視線を逸らしてしまう。
すぐさま咳払いで空気を変え、神妙そのものな表情をした。
「あの後、俺はひとりで黄家に戻ったんだ。そしたらちょうど爸爸が、王都から帰ってきててさ。話があるからって、屋敷にいる全員を集めたんだ」
集められたのは黄 沐阳を含む弟子たち。彼の母親であり、黄 茗泽の妻の女性もであった。そしてなぜか、家僕までもが集められてしまう。
このことに黄 茗泽の妻は驚きながら、ひたすら文句を言っていた。そんな最中、現当主である黄 茗泽から、耳を疑う言葉を告げられる。
「爸爸は笑顔でこう云ったんだ。[これから内戦が始まる。我々黄族は、この内戦への参加を決意する!]ってさ」
子供はどう答えていいのか。それに迷うほど、彼からの告白は衝撃的なものだった。
男は淡々と、知る限りのことを告げていく。
「もちろん俺らは反対したさ。仙道は人間の争いに介入してはならない。そう決められてるからな。それを破ったら最悪、家ごと潰れちまう」
黄族は、白や黒とは比べ物にならないほどの財力を有していた。同時に彼らは、人間たちと仙道の掛橋にもなっている。金を持つ彼らが人間たちに道具を売ることにより、仙道の力を流出できていた。
それがなくなれば、仙道たちの世界は混乱を極めてしまう。だからこそ彼ら黄族は、なくなってはならない一族でもあった。
「そうならねぇために、今まで俺らは戦争というものに介入しなかったんだ。それなのに……」
背を壁につけ、ズルズルと腰から落ちていく。しまいには膝を抱えて踞ってしまった。
「爸爸は、反対する妈妈を殺しちまったんだ! 俺たちの目の前で、妈妈の首を刎ねたんだ!」
ぐすぐすとした鼻水をすする音とともに、彼の声が子供の耳に届く。震える黄 沐阳に手を伸ばしかけるが、ぐっとその衝動を押さえた。
──こいつは、僕を追いやった張本人なんだ。どんな目に遇おうが、僕の知るところじゃない。だけど……そう、思ってるのに……
本来の優しさからか。どうしても放っておけないという気持ちが涌いてきた。意を決し、黄 沐阳の肩に手を置く。そして隣に座り、彼がどうしてここにいるのかなどを尋ねた。
彼は顔を上げ、鼻水だらけのままに涙を拭いた。
「爸爸が妈妈に手をかけた後、俺は抗議したさ。だけど……爸爸は人が変わったかのように笑いながら、俺を拘束したんだ。布か何かで目隠しされ、気がついたらこの町のオンボロ家屋に押しこまれてたってわけ」
鼻水を袖で拭き、もうひとりの黄 沐阳を凝望する。
もうひとりの彼は、笑顔で黄 茗泽の隣に立っていた。
「監禁場所から脱出したら、爸爸がこの町にいるって話を耳にしてさ。探してみたら……」
偽物とおぼしき、もうひとりの自分に出会ってしまう。その男を見ると背筋が凍りつくようだと、青ざめた表情で訴えた。
「わかんねーんだ。ここにいる俺は偽物で、あっちにいる俺こそが本物なんじゃって……俺の中にある記憶の全ては植えつけられたものでしかなく、本当は……本当の俺は……っ!?」
怖じけづく彼の頬に、子供の白い指が添えられる。
「──行こう!」
唐突に告げられた言葉は、男の両目を瞬きさせた。
華 閻李の銀の髪が、さらりと揺れる。動くたびに流れる銀の糸が、波打った。それを気にすることなく、子供は立ち上がる。
驚く黄 沐阳に手を差しのべ、彼の腕をぐいぐい引っぱった。
「確かめに行こう。自分の目で、耳で、全てを使って、黄 茗泽様の気持ちを聞きだすんだ。だけどそれができるのは、あんただけ。息子である、黄 沐阳だけ」
笑顔を黄 沐阳へ向ける。美しく、凛とした立ち姿で、決意を秘めた口述を放った。
「どんな結末が待ってるのかはわからないよ。でも……」
太陽の光を受けた銀の髪が、神々しいまでに黄金色になっていく。背中に伸びた髪が、神秘的な美しさを生んだ。
「立ち止まってたら、何も変わらないよ?」
優しいまでの微笑みを浮かべる。
「…………」
黄 沐阳の腰は、自然と起き上がっていった。泣いた跡をそのままに、華 閻李を見つめている。
「……お前、少し見ない間に変わったな?」
自身の両頬を強く叩き、気合いを入れた。服についた埃などを払い、子供の成長に驚いたように目を見開いている。
「屋敷にいた頃は、いつも下ばかり向いててさ。おどおどしてて、自分から意見なんて言わなかっただろ?」
「え? そう、かな?」
かわいらしく首をかしげ、きょとんとした。
「何をされても、言われても、誰かの後ろに隠れてた癖にさ」
「……そう、かもしれない。でも、そんな僕を変えてくれたのは思っていう、大切な人なんだ」
子供らしくはにかんだ。頬を赤らめ、恥ずかしそうに照れ笑いをする。
その笑顔はとても眩しく、太陽すらも負けるほどに輝いていた。




