少年の心、優しくありて
屋根の上を飛び移りながら、ふたりは杭西の西へと進んでいた。
冬の風と、空から降る雪がふたりの体を打ちつける。全 思風は平気なようだが、華 閻李はそういかなかった。
子供は彼の漢服を頭から被ってはいる。それでも体力のなさは変わらずで、寒さに震えていた。艶のあった唇は紫色に変色している。白い肌は土気色に、体温はぐっと下がって指先から冷たくなっていた。
「……小猫、大丈夫かい!?」
子供の体調が心配で足を止める。横抱きにした華 閻李の様子が少しおかしいことに気づき、彼は慌てて下へと降りた。
近くにある廃屋の外壁に隠れ、子供の熱を測る。幸いなことに少年に熱はなかった。けれど顔色を見るに、このまま外で行動するということは避けるべきだと判断する。
「小猫ごめんね。君が寒さに弱いって知ってたらこんな……」
自身の不甲斐なさを悔やんだ。
華 閻李は紫になった唇のまま、無理やり笑顔を作る。大丈夫だよと、彼の逞しい手に触れた。
──本当にこの子は優しいな。私に心配かけまいとして、辛いのを押して笑っている。
力があっても、王になっても、大切な子供ひとりすら守れない。そんな自分が憎く、そして情けないとすら感じた。
彼は唇を噛みしめる。
「……小猫、辛いときは無理して笑わなくてもいいよ」
「……っ!」
そう言った瞬間、子供の瞳が潤んだ。体を両手で包み、その場に踞る。顔を伏せ、ガタガタと震えながら想いを語った。
「怖いんだ」
「怖い?」
全 思風が隣に座り、子供の頭を撫でる。ふわふわとした髪に微笑みを落とし、そっと少年の体を自身へとよせた。
「人が死ぬ事。戦争が始まる事。それがとても怖くて、震えが止まらないんだ」
嗚咽が漏れる。
「誰かが死ぬのは見たくない! 京杭大運河で人が焼けたときだってそうだ。どうして、あんな死に方しなきゃいけなかったの!? 緑の旗を掲げてた人たちにだって、大切な人がいたはずなんだ!」
顔をあげて全てを吐き出した。大きな瞳から溢れる涙が頬を濡らしていく。いつも優しい眉も、今はつり上がってしまっていた。
「小猫……」
華 閻李をその手で抱きしめながら空を見上げる。灰を被った空はどこまでも続き、町の行く末を暗示しているかのようだった。
シンシンと雪が降り続け、そのひと粒を手に乗せる。一瞬だけ透明な硝子のような結晶が現れたかと思えば、すぐに溶けていった。
地、水、そして吐く息。それらと混ざりあっては消えていく。
──自分のことよりも他人の命、か。本当にこの子は優しい。だからこそ私は云えない。死を悔やんでも始まらないのだと。人は必ず死ぬ運命にある。それが早まっただけなのだと。
それを口にできたらどんなに楽か。
全 思風は喉元まで出かかった言葉を飲みこみ、恐怖に戦く子供を今ひとたび抱きしめた。
「小猫、その気持ちを忘れてはいけないよ。誰かを想えるという事は、とても大事なんだ。それだけで生きていける。強くもなれる。だから──」
泣かないで。
華 閻李の額に、優しい口づけをした。雪が彼の体温と重なり、子供の額は少しばかり湿ってしまう。
それでも彼は大切に想う子の泣き顔は見たくないなと、鼻先、頬、そして手の甲に軽く唇を落とした。
少年は嫌がる素振りを見せない。それどころか、甘んじて受け入れているような笑顔をとった。
「……あのね思、戦争は怖い。逃げたい。それは今も変わらない。でもね……同時に、止められるものなら止めたいって思う自分がいるんだ」
直人であるならば、それは許されたのだろう。しかし華 閻李も全 思風とて、直人にはない力を持っていた。
それを使わずに逃げるということは、何のための力なのか。仙人が内戦に荷担してるとかわった今、同じ人知を越える能力を持つ者にしか止めることは叶わないのだろう。
華 閻李は、涙で腫れた瞼をこすった。
「どこまでできるかはわからない。だけど、こんな事、続けちゃいけないんだ!」
神様になったつもりなどない。ただ、誰もが笑って明日を迎える日常を手にしたいのだと、鼻声で告げた。
彼は子供が元気になったことに安堵し、ほくそ笑む。
そのときだ。廃屋の扉が開き、「あ、あのー」という、遠慮がちな声がする。
見てみれば、そこにはひとりのうら若き乙女がいた。心なしか顔を赤く染めている。
女性はふたりを見張り、中へどうぞと誘った。
「生憎だけど、それは遠慮しておくよ。私は小猫とふた……」
「いいんですか!? 僕、中入りたい。お邪魔します」
「え!? し、小猫!? せっかくいい雰囲気だったのに……」
「ほら! 早く行こうよ思!」
「…………アア、ウン。ソデスネ」
無邪気に腕を引っぱる子供の背中を見ながら、全 思風の頬には涙がホロリと流れる。
案内されて廃屋の中に入ってみれば、そこにはたくさんの人がいた。老人や女、子供もいる。しかし若い男はふたりしかおらず、ほとんどが力のない者たちである。
「こっちに座ってください」
女性は空いている場所を薦めた。そこは何の変哲もない床である。
廃屋と思われていた建物の中は、存外きれいだった。台所もあれば、もち米の俵や野菜も置いてある。
大きいとは言えないまでも、それなりの広さはあった。
「……へえ、中と外では雰囲気違うね」
全 思風はがに股になって座る。膝の上に華 閻李を乗せ、珍しいげに見回した。
すると、ひとりの中年女性が近づいてくる。見た目は五十代のどこにでもいる女性であるが、ひとつだけ他と違うところがあった。それは、彼女の片足がないということ。代わりに杖を使っているということだった。
「ここは元々、河沿いに住む私たちの食料置き場だったの」
内戦が始まり、若い男たちが戦へと繰りだされる。そんななか、町にも内戦の火種が飛び、市民はひとまず安全な場所へと避難する旨が伝えられた。
しかし彼女たち平民に安全な場所というものはない。金持ちのように、頑丈な作りの家があるわけではなかった。そこで考えたのが、この廃屋である。
「ふふ、ここは食べ物を置いておく場所なだけあって、作りが他の家より頑丈なのよ」
人のよい笑顔だ。
「……ふーん。知恵ってやつか。それより、その足は?」
彼は感心しなかがらも女性の足を見つめる。
女性は「ああ、これ?」も、微笑みながら口を開いた。
「昔、病気でね。治療を続けるよりも、切断した方がいいって言われたの」
それでねと、人当たりのよい笑みをする。
「息子が、毎月お金を貯めて送ってくれてるのよ。少しでもいい薬を! って」
息子自慢をする女性の笑顔は眩しかった。
彼は微笑み返し、親孝行な息子だねと褒める。
「ええ、ええ、そうなのよ。この前も息子がお金を送ってくれて……あ、そうそう。あの子、少し前に友中関で役職を与えられたのよ」
「…………」
全 思風の眉がピクリと動いた。華 閻李も驚きながら、彼と目線を合わせる。
中年女性はそんなふたりの変化に気づくことなく、息子自慢を続けた。
「だから私、あの子に祝いの品である木を送ったの。木が成長する度に手紙をくれてね。その手紙には、必ずこう書かれているのよ。[人々を守れるようになりたい。身を呈して守る。それが俺の夢]って」
中年女性の弾む声だけが、廃屋内へと響く。
全 思風は子供と目配せした。そして息子についていろいろと尋ねる。
「あらまあ! あの子の事を知ってたの? ねえ、元気でやってた?」
花が咲き乱れるかのような笑顔を浮かべた。
直後、華 閻李が袖から一本の枝を取り出すと、中年女性はきょとんとしてしまう。
一言では伝えきれぬことを、ふたりは静かに告げていった──




