兵の想いを届けに
京杭大運河での戦争を目の当たりにしたふたりは、急いで杭西へと向かった。
到着した町は銀の世界となっていた。
杭西の中を流れる河には舟が浮かんでいる。河の両脇には家屋が並び、屋根の上に雪が積もっていた。ゆらゆらと揺れる提灯の明かりが、白銀の景色と重なって幻想的に見える。
しかし肝心の人の姿がなく、町は静まり返っていた。
置き捨てられた籠、水浸しになった漢服など。数刻前まではそこに誰かがいたであろうという、生活感のある風景が置き去りにされていた。
「……誰もいないね?」
町の中にある河を進みながら、華 閻李は小首を斜めに動かす。呼吸をするたびに白い息が生まれ、はーと吹きかけては両手を温めた。
白い獣である白虎を暖として抱きしめる。寒いなあと、体を震わせた。
「すぐ近くで戦があったからね。多分その影響で皆、家の中に閉じこもってるんじゃないかな?」
それに雪も降ってるからねと、彼は優しく説明をする。ただ口ではそう言っていても、彼自身、町中での戦争がないことを願うことしかできなかった。
河から確認できる建物をひとつひとつ、黙視していく。
建物が壊れた様子はないので、町の中までは戦争の被害が及んでいないだろうと推測できた。そのことにホッと胸を撫で下ろしながら、舟を進めていく。
ふと、行き止まりに差しかかった。ここから先は舟では進むことが不可能のようで、ふたりは降りることを決める。
「──さあ、私の小猫。転ばぬよう、手を」
「ふふ。本当に思って優しいよね?」
先に舟から降りた全 思風が、華 閻李の手を取った。
パラパラと粉雪が降り続き、ふたりの頭や肩などに落ちて溶けていく。
ときおり足元にいる白虎の鼻にかかり、虎はイヤイヤと顔をぶるぶるさせていた。
そんな白虎を両腕で抱き、子供はふふっと微笑しながら雪を払う。
「はは。牡丹は雪嫌いなの?」
「牡丹?」
「うん、そうだよ。この仔猫君の事。ずっと仔猫だとかわいそうでしょ?」
ふわふわとした牡丹の毛を堪能しながら、かわいいと言って頬擦りをした。
全 思風は少しばかりの嫉妬を覚える。子供のように頬を膨らませ、牡丹の身体をつついた。
「小猫に名前をつけてもらえるなんて、羨ましい虎だ」
私もつけてほしいなと、叶いもしない望みを口走らせる。どさくさに紛れ、子供の細腰をぐいっと引きよせた。
華 閻李の長く美しい銀髪を手にとれば、するりと指と指の間を流れていく。
雪のように白い肌はもちもちとしていた。両頬は薄桜色になり、ふっくらとした唇は艶やかである。くりくりとした大きな瞳には、常に影が落とされていた。
「……でも思には、もう名前あるじゃない」
かっこいい名前だよと、無防備な笑みを浮かべた。
全 思風は子供の髪から手を離し、両目を瞑る。
「違うよ。あれは確かに名前だけど、私のそれは、君から貰ったものではないからね」
黒い上着を脱いだ。それを眼前にいる小柄な少年へと、そっと被せていく。
地に、雪がパラパラと降っていた。積もりはしないが、水となって大地へと溶けていく。自身の体で雪を受け止め、品のよい笑みを溢した。
華 閻李という、美しくも儚い子供へ、暖かな笑みを与える。
脆くはない。けれど強くもない。そんな不思議な微笑みだ。
「……思、どうしたの?」
「ううん、何でもないよ」
──ふたつ名でもいいから、小猫に名前、つけてもらえたらなあ。そうすれば私は、君だけの存在でいられるんだ。ああでも、口が避けても言えないこと。名前を貰った二匹の動物にすら、嫉妬してしまう。
嫉妬深さは筋金入りだなと、改めて自身の気持ちと向き合った瞬間だった。
そんな彼は華 閻李の小さな手をひき、町の中へと足を進ませる。
町はそれほど大きくはなかった。けれど人っ子ひとりいない町は、寂れているようにも見える。
空の桶が風で転がる。
野良犬の鳴き声が、いやに強く耳に届いた。
雪かきすらしていない屋根には、白く重たいものがのしかかっている。幽霊が出そうなほどではないにせよ、あまりにも静かすぎていた。
「小猫、どうしようか? このままじゃ、あの兵の母親に会えないままだ」
彼らの本来の目的は戦争をすることではない。
友中関という関所で起きた事件、あれに巻きこまれた男の魂を救うためであった。
男は自分の身を省みず、生き残った人々を助けるために命をかけていた。
結果として命を落とすはめになったが、その勇敢かつ、他者を思いやる気持ちを残された母親に伝えるため。最後まで男らしくあった彼の魂を救ってあげたい。
そんな華 閻李の気持ちが、ふたりをこの地へと引きよせた。
「大丈夫だよ思、この枝に家を聞くから」
そう云うと、牡丹の毛をわしゃわしゃとさせた。牡丹と名づけられた白虎は、身体をひとふりする。すると毛の中から一本の枝がぽっこりと現れたのだ。
「…………いや、どこに入れてたのさ?」
虚無が彼に頭痛を与える。それでも華 閻李は気にすることなく、牡丹のもふもふとした毛を撫でて微笑んだ。
「さて、と──」
子供は彼の漢服を全 思風へと渡す。そして枝に軽く口づけをした。
「──記憶に残りし想いを持つ、弱き者。この声が聞こえるのなら……たどり着きたいという想いがあるのなら、僕らに道標をちょうだい」
両手に乗せた枝は、子供の優しい声音に反応するかのように小刻みに揺れる。淡く、夕陽のように切なくなる。そんな光を放っていた。
光の加減で華 閻李の銀の髪は、静かに儚げな橙色へと染まる。小動物のように愛らしい見目そのままに、麗しさと細さを、さらに引きたてていった。
「──さあ、教えて。僕らが目指すべき行方を」
枝が、子供の声を聞き入れたかのように浮く。ふわり、ふわりと、重量など無視したかたちで空を登っていく。やがて、町にあるどの建物よりも高い位置で止まった。そのとき、枝は灯籠のように幻想的な光を生む。そして、ゆっくりと町の西へと進んでいった。
「思、あの枝を追って!」
全 思風は云われるまでもないといった様子で、子供を横抱きにする。近くにある屋根へと飛び、枝を追いかけていった。
ふたりが飛び去った方角の反対側……東では、革の鎧を身につけている人たちがいる。彼らは疲弊し、顔に難色を示していた。
そんな者たちの中心には、ひとつの櫓がある。そこからふたつの影が、足音をたてて現れた。
ひとりはにこにこと、笑顔を絶やさない中年男性である。そしてもうひとり、中年男性よりも若い顔立ちの者がいた。そのどちらもが上は黄、下にいくにつれて白くなる漸層の漢服を着ている。
「──兵たちよ! 嘆き悲しむ時間はないぞ!」
中年男性が声高らかにあげた。両手を広げ、兵たちを見下ろす。そして後ろに控えている者を見、すうーと大く息を吸った。
「安心しなさい。我が、君たちの憂いを晴らしてくれようぞ。ここにいる我が息子、黄 沐阳とともにな!」
若い男の名は黄 沐阳。そして中年男性はその父であり、現黄族の当主であった。




