河上での戦争
枌洋の村、そして蘇錫市。そのどちらにも疑問が残るかたちとなった。
ただひとつ。わかっているのは、どちらも白き服の者たちが関わっていたことだった。
──小猫のいう事は尤もだ。だけど何もわからない以上、考えてもしかたないんだろうね。
よしと、気を取り直して棒を動かした。
「それらについては、情報を集める必要があるんだろうね。最終目的地は王都だ。そこに行くまでに、何かしらを得られるかもしれない」
少しばかり跳ねた水を浴びながら、垂直に舟を進ませる。
「とりあえずはさ、杭西へ行こう。そこで情報を得られればいいんだけど……」
「そう、だね。あ、見て! 花売りだよ」
たくさんの舟が行き交うなかで、たくさんの花がふたりの元へとやってきた。舟の上に乗っている花たちは彩りで、牡丹や薔薇などが積まれている。
舟員は華 閻李の弾んだ声が耳に入ったようだ。微笑みながら近づいてくる。
「おやおや、とっても可愛い子だね。どうだい? お花、買っていくかい?」
花売りは老婆だった。子供の無邪気な笑顔に気をよくし、いくぶんか割引をしてくれるよう。
全 思風が子供にどの花を買うのかと問えば、華 閻李は両目をキラキラとさせた。まるで宝石箱でも開けるかのような、期待に満ちた眼差しである。
しばらくすると花売りの老婆が乗った舟は、ふたりから離れていった。
代わりに、彼らの舟は花でいっぱいになっている。
花びらは桃色で、中心にいくにつれて白くなっていった。それは食用や薬品としても知られる蓮の花である。
華 閻李はそれらを手にとり、ふふっと美しく笑んだ。
「この蓮の花は高潔さ、染まらない心って意味があるんだ」
嬉しそうに、蓮の花の茎をくるくる回す。
「……へえ、そうなんだ。何か小猫みたいな花だね?」
「え?」
まっすぐ前だけを見据えながら、全 思風は語った。棒で水を掬い、蓮の花へとかけてみる。すると水滴は太陽にも負けない輝きを生み、花びらをほんの少しだけ揺らした。
なんてことない光景ではあったが、彼が振り返った先にいる子供は楽しそうにしている。
──ああ、本当にかわいい。やっぱり私の一番は君だけだよ、小猫。
子供の笑顔に元気をもらい、再び舟を漕いだ。
数分して京杭大運河の中心に差しかる。中心というだけあり、他のところよりも深くなっていた。河の流れも激しくなっていて、気を抜くと舵を取られてしまうほどた。
彼はそうならぬよう細心の注意をはらいながら、流れに舟を預ける。ふと、彼の聴覚に、この場には不釣り合いな音が聞こえた。
ゆっくりと舟を河の隅へとよせ、華 閻李を隠すように抱きしめる。
「思?」
「……何か変だ。河にはあるはずのない音が聞こえる」
瞳を朱へと変え、様子を伺った。瞬間、杭西方面から何隻もの民間舟が現れる。そこには民間人であろう人々が乗っており、なかには観光用の中型舟まであった。
「急げ! 巻きこまれるぞーー!」
どの舟員も、我先にと棒を素早く漕いでいる。
全 思風は子供から離れ、逃げるように急ぐ一隻を捕まえた。舟は漁船で、後ろにはたくさんの魚がいる。操舵師は中年の男だ。
「ねえ、何があったのさ?」
全 思風が声をかけると、男は慌てながら悲鳴をあげる。ガチガチと上下の歯を合わせては放していた。全身は震えあがり、顔は青白くなっている。
それでも彼は男を逃がさまいと、相手の舟へと乗りこんだ。
「せ、戦争だよ! 王都の兵と連合軍が、京杭大運河の向こうで戦争をおっ始めやがったのさ!」
退いてくれと、全 思風を突き放す。
「王都の兵はわかるけど、連合軍って……あっ、おいっ!」
彼の呼び声もむなしく、男は彼の隙をついて逃げていってしまった。
あっけなく逃げられたことに多少の失態を覚えるが、舌打ちだけで済ます。そして華 閻李の横に座り、子供と目を合わせた。
「……小猫、連合軍って知ってる?」
聞いたことがないんだけどと、顎に手をあてて考える。華 閻李の方を見れば、子供は小首をかしげていた。
「えっと……今の皇帝に不満を持ってる人は多いって話は知ってるよ。それが原因で、國内のところどころで紛争が起きてるって話も聞いたかな」
「ああ、爛 春犂がそんな事言ってたね」
華 閻李の話をしっかりと聞き、ぐいっと子供を抱きよせる。両腕で包み、これでもかというほどに少年の薫りを楽しんだ。
──内戦ってやつか。これはいつの時代も、どの世界でも変わらないね。ああ。小猫が傷つかなければいいのだけど。
子供からする薔薇の薫りに酔いながら、そんなことを考えた。
「でも困ったね。この先を通らないと、目的地にはつかないわけだし」
今さら陸路へ変更するわけにもいかなかった。運河の中枢付近まできてしまっているため、戻る時間すら惜しまれてしまう。
全 思風ひとりならば問題はなかったのだろう。しかし華 閻李という、体力に不安のある子供もいるのだ。
彼には置いてくという選択肢すらない。むしろ、離れるのさえ嫌だという、我が儘な気持ちがあった。
「……えっと、戦争に巻きこまれないで、京杭大運河を渡りきればいいの?」
「え? ああ、うん。そうだね。……でも、方法が思いつかないんだよね。手っ取り早いのが、戦場を突っ切るってやつんだけど……」
「それならあるよ」
「そう、ある……って、え!?」
真剣な面持ちが一転、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になる。すっとんきょうな声とともに子供を見れば、少年は先ほど買った花を一本手に取っていた。
蓮の花に軽く口づけをする。瞬刻、花が淡い光を放った。
「──我、花の主。美しき花よ。我らを護る盾となれ」
華 閻李の、透き通る声が周囲に風を生む。穏やかで優しく、それでいて春の日差しのように暖かい。今の季節が冬であるということを忘れてしまう。そんな風がふたりの乗る舟を包んでいった。
全 思風は目を細め、美しく輝く子供を見張る。やがて……
光がなくなっていった。かと思えば、透明な幕のような何かが舟を囲んでいる。触ってみれば、ほどよい弾力があった。
「……小猫、これは?」
強く押せば、幕に波紋ができる。暖かくも冷たくもないそれは、ボヨンボヨンと、小気味良い音を奏でていた。
「結界……の、ようなものかな? 外からは見えないようにしてあるんだ」
中からは外の景色が拝める。けれど外からは、舟そのものが見えない仕組みとなっていた。
「小猫、もしかしなくても天才肌なのかい?」
何でもできるわけではないが、難しいことをアッサリとやってのける。ある種の天才ともいえるのではないか。
全 思風は驚きながら立ち上がった。そして棒を持ち、舟を漕ぎだす。
──小猫の力は本当に不思議だ。だけど、暖かくて優しい。
だからこそ護りたいのだと、改めて決意した。
そしてふたりは音のする方へと向かっていく。まっすぐかと思われていた河は途中で大きく横に曲がっていた。そこを通りすぎたとき、二種類の旗を掲げた舟が規則正しく並んでいた。




