運河を超えて
枸杞の村で昼食をすませた後、爛 春犂と一旦別れた。男を見守りながらふたりは杭西へと向かうため、村の隅にある京杭大運河へと訪れる。
京杭大運河の向こう岸は山になっており、降りれる場所はなかった。
運河自体は深く、大人でも足をつけることが困難なほどである。汚染されていない河は水面が透明で、泳ぐ魚や底が見えていた。
そんな河には運搬船のみならず、観光客を乗せた船も行き交っている。
「ねえ思、ここから船で行くの?」
小型で美しい髪を持つ、端麗な少年──華 閻李──は頭の上に躑躅を。両腕で白虎を抱きしめていた。
小首をかしげる様は、その見目も相まって非常に愛らしい。二匹の動物も合わさると、さらに儚く見えて、全 思風の中にある庇護欲をそそった。
「うん、そうなるかな」
抱きしめてしまいたい気持ちをこらえ、肩にかかる三つ編みを払う。
木で作られた足場に向かい、小舟を棒で引きよせた。片足を足場に。もう片方を船の上に乗せ、動くのを防ぐ。
「あそこに山があるだろ? あの山は、かなり道が細くなっててね。馬車では通れないんだ」
山道は険しいため、馬では進むことが難しい。凸凹道もあり、旅に慣れていない者には厳しい道ゆきにしかならなかった。
「それに、ほら」
空を指差す。そこには海のように蒼い空があった。しかし目を凝らしてみれば、何かの集団のようなものが飛んでいる。
華 閻李は、鳥なのかと問うた。
「違う。あれは黒族の者たちだ。ここは既に彼らの領域だからね。飛んでてもおかしくはないよ」
山には彼らのような仙道が多く訪れる。それは山という場所そのものが、修行の場としてちょうどいいからだった。
そんな彼らに見つかり、いろいろと質問されるとめんどうだから。そういった理由もあり、山は通らない方が賢明だと告げた。
これには子供も賛同する。
「まあ、そういう理由だから、陸路がない以上は河を使うのが妥当だと思う。もちろん河にだって黒族はいるんだろうけどね。でも、他の人たちも船を使っているんだから、こっちの方が紛れる事ができる」
さあ行こうかと、右手を華 閻李の前に差し出した。
「──小猫、いや。華 閻李、私と河で逢瀬を楽しんでくれないかい?」
片足で船を止めながら、左手を胸の前に持ってくる。軽く腰を曲げ、会釈をした。
華 閻李は一瞬だけ目を丸め、ふふっと楽しそうに微笑む。
「誘ってるみたいだね?」
「うん、待ちに待った、君とふたりだけの時間だからね」
苦笑いをするなり、全 思風は両手を大きく広げた。子供はそこに飛びこむように、彼の胸板へと身を預ける。
「それじゃあ行こうか。私だけの小猫」
濡羽色の美しい三つ編みが風に揺らされた。黒水晶のように輝く瞳に、これでもかというほどに子供の姿を映す。
子供にも劣らぬ無邪気な微笑みで、目の前の愛し子を見つめた。
□ □ □ ■ ■ ■
京杭大運河を小舟で渡る人々は多かった。
枸杞の村を出発してから、いくつの小舟とすれ違ったか。数えることではないにせよ、もう、何隻もの小舟に乗る人々と挨拶を交わしている。
「小猫、退屈はしていないかい?」
「ううん! 見るもの全てが新しくて、わくわくしてるんだ。あっ、見て! 魚がいる」
河の水は透明だ。深いであろう底まで見えるほどである。
そんな河には何匹もの魚が、縦横無尽に泳いでいた。
華 閻李は水に手を伸ばす。当然、冬の水は冷たかった。触れた瞬間に手を引っこめ、ううと口を尖らせた。
「……小猫は水、平気?」
泳げるかどうか。それが心配だと、子供に背を見せながら漕ぐ。
「うーん、どうなんだろう? 僕、泳いだ事ないんだよね。そういう思はどうなの?」
「うっ! 泳げはするよ。でもほら、私は水との相性最悪だし……」
青ざめた表情で肩を落とした。
全 思風という男は水に関係するものにたいし、かなり運が悪い。
ある時は河で足を滑らせ、魚にすら敵意を向けられた。そしてまたある時は足を滑らせ、腰にある剣で腹を突いてしまった。
そんな出来事から、水に対する恐怖心が少なからず生まれてしまっているよう。
それでも華 閻李が関われば、運の悪さなど退ける自信はあった。
──口にしてしまうのは簡単だ。それに実際問題、できなかったら恥ずかしい。まあ、私が小猫を助けないなんてことは絶対にないけどね。
ふふっと、誰も見ていないところでほくそ笑んだ。
「……ねえ思」
背中越しに聞こえる子供の声は真剣そのものである。
振り向くことをせずに、全 思風はどうしたのと尋ねた。しかし幾度待てど、子供の声は聞こえてこない。
不思議に思った彼は、少しだけ体をひねらせて華 閻李に視線を預けた。
横目にのぞけば、白虎の肉球で遊んでいるのが見える。けれど笑顔には少しばかりの陰りがあるようだ。
ふと、子供は彼の視線に気づいたよう。顔をあげて苦笑いをした。肉球遊びをしたまま、真向かった。
「僕、どうしてもわからない事がいくつかあるんだ」
申し訳なさそうにはにかむ。
全 思風は子供から視線を離し、向きを前へと戻した。
「……? わからない事? 何がだい?」
ときどき河の流れが激しくなる場所があり、その都度、舵をきった。体勢をなおし、河の音を耳に入れながら華 閻李からの返事を待つ。
「夔山の麓の村、あそこは陰の気が他より強いから狙われたんだよね?」
「そうだね。あそこは、冥界へ通じる道とも言われている。その理由は様々だけど、結局のところは陰の気が他より強いからって事かな」
それがどうかしたのかいと、優しい声で対応した。
後ろからは華 閻李の、あーうーという、高めの声がする。
彼はそんな子供をかわいいと思いつつ、くすっと微笑した。
「んー、でもさ? だったら何で、他の妖怪が出てこなかったの?」
「……!」
瞬間、全 思風の瞳が細められる。
──確かにその通りだ。陰の気が強ければ強いほど、妖怪は集まりやすい。だけど枌洋の村にいたのは、殭屍だけだった。なぜ、他の妖怪たちの姿がなかったんだ?
舵をとりながら、華 閻李に投げられた質問の答えを探ってみた。けれど考えても何もわからず、途方に暮れてしまう。
「それと、もうひとつ。蘇錫市の妓女って覚えてるよね?」
正確には妓女の姿をした妖怪であった。貫匈人と呼ばれる、女の姿をした妖怪である。
彼女は全 思風を愛していた。けれどその恋は報われることなく、命を散らしてしまう。
「その妓女だった人って、何で思の事知ってたの?」
「何でって……私は冥界の王だからね。あちら側に住む者なら、誰だって私の事を知って……」
「違う」
何が違うというか。
彼は首をかしげるしかなかった。
「どうしてあの人、思が蘇錫市にいた事を知ってたの?」
「……!?」
彼の全身を、驚愕という痺れが走る。
再び両目を細めた。右手で棒を持ち、左手で顎を触る。
「……確かに、言われてみるとそうだ。私はあのとき、気配を消していた。よほどの力を持たない限りは、私の気配を見つける事など不可能。それなのにあの女は私が来たのを知ったかのように、見計らって行動を起こしていた」
それにと、大きなため息をついた。
「あの女は死ぬ直前、あの人に力をもらったと言っていた」
「あの人?」
彼の長い三つ編みが揺れる。
「誰の事なのかは、今もわかっていないんだ。あれ以来、あの人という言葉は聞かないからね」
蘇錫市での黒幕は、間違いなくその人なのだろう。しかし姿すら掴めぬ相手に、どう立ち回るべきか。
全 思風は首をひねらせた。
見えてきたようで、何もわからない。そんな状態が増えていくだけの今、彼は遠い空を眺めることで現実逃避をした。




