英雄
兵の魂を追いかけた先には、目も当てられぬ光景が待っていた。
人力ではとても無理だろうと思われる、壁の穴や倒された木々。そして逃げまとう人々、地に点々と転がる死体など。
関所というよりは地獄の単語がふさわしいほどに、悲惨な状況となっていた。
『……な、何だ、これは!?』
駆けつけた男の声が震える。手に持っていた水桶を落としたことにも気づかぬほど、体が固まっているようだ。
両目は見開き、涙が溜まっている。
『いったい何が……っ!?』
死体に駆けよろうとしたとき、関所の壁の影から何かが現れた。
それは人の形をしている。
けれど青白い肌に、たくさん浮かぶ血管。そして黒のない白目の者だ。髪型や大きな胸部からして、女だということはわかる。けれど服はビリビリに破け、皮膚のいたるところから出血していた。
なによりも両腕を胸の位置まで上げて、飛びはねながら前へ進んでいる。
『……っ殭屍!?』
驚く同時に恐怖が襲う。空の水桶を仔猫へと投げ捨てた。
殭屍の頭に桶があたる。しかしこの者は痛みすら感じぬ様子だ。足元に落ちた桶を踏み潰す。
どこを見ているのかわからぬ視線をもちながら、頭をぐらぐら揺らした。やがて男の気配に気づくや否や、再び飛びはねながら彼へと近づく。
『……何で殭屍がここにいるんだ!? ここには、陰の気を寄せつけない呪いがされてるはずだぞ!?』
恐怖に負けじと、近くにあった剣を手に取った。眼前に迫る殭屍の胸部せと突き刺す。相手の動きが鈍くなったのを見計らい、息を切らしながら花畑まで戻っていった。
花畑の近くにある建物に入り、黒い房がついた槍を握る。周囲を見渡せば、争った痕跡がいくつもあった。
『この宿舎は、花畑の隣だぞ!? 花畑からあの場所まで、※一点もしないはずだ! それなのに、この短時間でこんな……』
血塗られた床や机、床に赤黒い水溜まりがある。けれど人の気配はなかった。
それを不思議に思うも、今、最優先すべきことはなにかと腹をくくる。
槍を強く握り、呼吸を整えながら宿舎を飛び出した──
† † † †
男の魂の行く末を見守る全 思風は、隣にいる子供へ耳打ちする。
「ねえ小猫、いったい何をしたんだい?」
どうやら彼は、今視ている光景を処理できないようだ。男の行動をではなく、なぜ魂の動きが走馬灯のように映るのか。それについての疑問を投げた。
「……別におかしな事じゃないよ。あの蝋梅の木には、男の人の想いがたくさん詰まってるんだ。それが声になって僕に語りかけてくるんだ」
「想い? それに、声?」
華 閻李は静かに頷く。蝋梅の木を指差し、天使のような、儚げな眼差しを浮かべた。
「さっき男の人が言ってたでしょ? あの木は母親がくれたものだって。だからこそ大切にしてるんだと思う。その想いが強いから、木もそれに答えてくれてるんだ」
まるで、植物の声が聞こえているかのような物言いである。
全 思風は「ふーん」とだけ口にした。
「あれ? 思ってば、信じてない?」
「いや、信じてはいるよ。だって小猫の言う事だからね。ただ……」
魂たちを呼び出すとき、彼の三つ編みはほどかれてしまっていた。それをせっせと直し、蝋梅の木を凝望する。
「……私には、植物の声なんて聞こえないからね」
「うん、僕もそう思う。普通はそうだよね?」
「おや? 小猫、自分の力を否定してるのかい?」
彼は首を傾げた。
子供の頭を撫で、ギュッと抱きしめる。子供らしい暖かさと、華 閻李足らしめる仄かな甘い薫り。それらが彼の鼻をくすぐった。
華 閻李はもぞもぞと動き、かわいらしい顔に少しだけの不機嫌さを交える。頬を膨らませ、違うよと呟いた。
「否定なんかしないよ。これが僕だもん」
大きな瞳で見上げてくる。
小動物のように愛らしい見目で見つめられた瞬間、彼はうっと言葉をつまらせた。
「そ、そう、だね。うん! そうだよね! それが小猫だもんね!?」
しどろもどろと、声が上ずる。視線を浮かせ、栗鼠のよう頬を膨らませている華 閻李に同意した。
子供は納得がいかない様子だったが、ため息をついて蝋梅の木を見つめる。
「さっきから視えてるのは、あの蝋梅の木が映してるんだと思う。何となくだけど、あの木が視点となってるんじゃないかな? ……あっ!」
そのときだった。
門の上にある三階建ての建物から影が現れた。二人はハッと息をのむ。
「……あれ? あの人って……」
華 閻李の声は驚愕が混じった。影を指差し、両目を大きく見開く。
二人の視界の先にいるのは、槍を持ったあの男だった。
しかし彼の片腕は肘から下がなく、血を滝のように流している。服や革鎧はボロボロだ。靴は片方しか履いていない。
そんな男の顔を見れば、建物に入っていったときとはうって変わっていた。
顔色は土気色で、血管が浮かんでいる。瞳には光などない。あるのは殭屍と同じ、黒を失った色をしていた。口からヨダレを垂らし、言葉にならぬ声を発していく。
進む姿も生きた人とは思えぬそれだった。
「……思、これって」
「うん、どうやら彼も殭屍になってしまったようだ。だけど、ちょっと普通の殭屍とは違うようだよ」
ほらと、男を指し示す。
彼の言うとおり、男は妙な動きをしていた。
殭屍の証として、跳びはねて進む。これがなかったのだ。多少、進む度に上下に動いてはいるようだが、それでもぎこちない。そして腕もおかしかった。片腕がないにしても、残った方を胸の前まで持ってきては下げてを繰り返していたのだ。
あまりにもおかしな行動に、華 閻李は小首を傾げる。
「え? どうなってるんだろう? あの男の人は殭屍、なんだよね? それなのに……」
人間と殭屍の狭間に立っているかのようだと、全 思風に問うた。
彼は頷く。
「小猫、よーく見てごらん」
そう言われ、子供は両目を瞬かせた。すると……
男は進んでいた。しかし、先々にいる無数の殭屍たちを薙ぎ倒しているではないか。人にはない力で殭屍らの肩や体にぶつかる。そのたびに、人ならざる者たちはその場に倒れていった。
男は殭屍に振り向き、残っている腕で彼らの頭を砕いていく。何度も何度もやり、行く道を塞ぐ者がいなくなるまで続いた。
やがて殭屍たちが動かなくなると、男は人とは思えぬ力で死体を引きずっていく。
そこを行ったり来たり。それを繰り返し、ようやく終わった頃には殭屍の姿など消え失せていた。
「……どうやらあの男は、意識が残っていたようだ」
「そんな事あるの?」
現に、それが起きていた。まぎれもない事実ではあるが信じられないといった様子で、全 思風に尋ねる。
「ごく稀にだけど、ああやって意思が残る人がいるんだってさ。理由はわからないけどね」
そう言って華 閻李の手を握り、男の後をつけていった。
男が向かったのは、背の高い木々が生い茂る森である。奥へ奥へと、茂みをかき分けもせずに歩んだ。しばらくすると近くになっている木へと背を預け、ズルズルと腰から崩れ落ちていく。
『……かぁ、さ、に行く、俺、ゆるし……て……くれ』
どこを見ているのかもわからぬ瞳はゆっくりと、静かに、閉じられていった。
瞬間、男の魂は蛍火のように淡く輝く。そして形どっていた魂は風とともに消滅した。
「……人が、好きだったんだね。自分の命を捨ててまで、誰かを守るほどに」
子供の優しい声が森の木々を揺らす。
「だからって……こんなのおかしいよ!」
幼さを残す声に、嗚咽が混じった。顔をあげて全 思風の胸に飛びこみ、ひたすら雫を流していく。
全 思風はそんな子供を優しく抱きしめてやった。子供の後ろ髪を撫でながら、冬の風を身にうける。
すっと両目を細め、華 閻李ではない別の何かを見ていた。
そこにいたのは、革鎧を着た男である。苦しみから解放されたかのような笑みで、静かに眠っていた。
汚れたり、血まみれではある。けれど殭屍ではなく、生身の人間として、そこにいた。
「この男は、最後の最後で人間としての生を終えた。そして、殭屍という呪縛からも解放された」
間違いなく、彼は英雄なんだろうね。
全 思風の、いつになく寂しさを含む声が、風の中へと飛んでいった。




