花の記憶
人の形を成した魂たちは何かを訴えるように、それぞれが違う行動をとっていた。
腰の曲がった老婆は涙を流しながら震えている。数人の兵たちは弓や剣などを構え、ひたすら空を斬り続けている。
女子供は怯えた表情で丸まり、泣いていた。農民であろう男たちもおり、彼らは逃げるように走っている。
直後、突然動きが止まった。正確には何かに驚いた様子で、全員が一点だけを見つめている。
「……思、これって……」
「……おそらくだけど、殭屍の襲撃から逃げたりしてる場面なんだろうね。でも、参ったなあ」
華 閻李を抱きよせる彼は肩から大きなため息を溢した。ほどかれてうねる髪をそのままに、空を仰ぎ見る。
ここで起きた悲劇、それが嘘のように晴れた空だ。太陽が燦々と地上を照らし、彼の両目を細めさせる。
青空の中を泳ぐように名もなき鳥が進んだ。雲はゆっくりと姿形を変え、海のように広大な空を隠す。
地上には雑草、木々など。自然のものがたくさん生えていた。
ときおり吹く冬の風は冷たい。けれど、どこからともなく訪れた花弁が舞った。
「……あのね小猫、どうやら彼らかは情報を聞き出せそうにない」
関所の中を走る静寂を浴びて苦笑いとともに、うーんと首を捻る。
「え? 何で?」
華 閻李が小首を傾げる様は、とてもかわいらしい。少女のように愛らしい見目が、彼の言葉を詰まらせた。
「さっきも云ったけど、ここの魂は欠損が激しいんだ」
魂そのものが傷ついてしまうと、呼び出せたとしても明確な答えを教えてくれない。それは彼らの意思とは関係なく、生身の者と死者を繋ぐ糸が切れてしまっているからだった。
「仙人たちが死者の言葉を聞いて浄化する。それは、死者側の魂が無事だった場合だ。今回のように何かしらの部分が壊れてしまっていると、彼らが伝えたい事が上手く届かなくなる」
動物は意志疎通ができない。それと同じになってしまうんだと、困り果てた様子で伝えた。
「え? じゃあ、どうやって聞き出すの?」
「うーん、私は死者の魂を呼び出しはできるけど、聞き取る事は苦手なんだ」
ハッキリとした言葉を受け取るのは難しいと、申し訳なさそうに眉をしかめる。
この場に爛 春犂がいたのならば、冥界の王という立場としてはどうなのだと笑われるだろう。
それでも彼は、その事実を華 閻李に黙っていることはできなかった。嘘で嘘を重ねている自身ではあったが、今必要な情報についての事柄だけは正直に伝えたい。そう決めていたのだ。
──ああ、こんな駄目な私は、小猫に見捨てられてしまわないだろうか。
悔しさや恥ずかしさよりも、大切な子供に見限られる。それだけが彼の脳裏をずっと支配していた。
不安だけが心を埋め尽くす彼は、抱きしめている華 閻李を見下ろす。
子供の長く伸びた銀髪は、地面についてしまうほどだ。陽の光を受ければ、一本一本が煌めく。
肌の色は雪よりも薄い白磁で、頬はほんのりと赤く火照っていた。
首や腰などは細い。かえってそれが全 思風の色欲を誘っていた。
「……ん? どうしたの?」
彼からの視線に気づいたのか、大きな目で見上げてくる。小動物のように愛らしい見目で上目遣いをした瞬間、全 思風の喉は大きく鳴った。
けれど状況を理解していた彼は正気を保つために、自らの頬をつねる。千切れんばかりに首を強くふり、深呼吸をした。
「いや、何でもないよ。それよりどうしようか? 今のままだと、これ以上の情報を引き出すのは難しい。まあ脅せば、どうとでもなるんだけどね」
いっそのこと冥界の王として、彼らを無理やり従わせるべきか。物騒かつ、誉められたやり方ではないことを選んだ。
そのために一歩前へ出る。
瞬刻、再び花弁が視界の横を遮った。
「これは、どこから飛んできてるんだ?」
彼の無骨な手が花弁を掴む。それは、黄色い梅に似た花だった。微かな甘い香りが全 思風の鼻をくすぐる。
「あ、それは蝋梅だよ。冬に咲く花で梅に似てるけど、全くの別物たよ。その似た見た目から蝋梅ってつけられたんだ」
花のことには詳しいようで、子供はえへへと照れていた。
そんな華 閻李の頭を撫で、優しい微笑みを落とす。
「ふふ、小猫は花の知識が豊富なんだね? でも……」
いったいどこから飛んできたんだと、周囲を見渡した。ふと、蝋梅の花弁と同じ香りが彼の鼻を刺激する。
全 思風は子供の手をやんわりと握り、香りの元を辿った。
ふたりがいるのは関所の中央付近である。そこから門があるところまで進むと、一つの小さな小屋があった。中をのぞけば、いくつかの簡易な床がある。それ以外にも机や荷棚などもあり、人が住めるだけの空間はあった。
「ここは兵の宿舎っぽいね。剣や弓矢が置いてある」
質素で、最低限の暮らししかできないであろう場所のようだ。けれど生活感もあり、兵たちが寝泊まりするには十分な建物といえる。
その建物の裏側、門と宿舎の間に、小さな花畑があった。関所にしては珍しい花畑である。荒らされて花弁が落ちている花もあるが、無事だったものもあった。
花畑にある花たちは、とても小さな山茶花である。
そして濃い桃色の花の山茶花に囲まれるように、一本の木が植えられていた。決して大きくはないが、それでもしっかりと根をはる姿は美しいとさえ感じる。
「……この木、のようだ。というか、こんなところに花畑なんてあったんだね」
全 思風は己の手に持つ花弁へと視線をやる。一本の木になっている花も、彼の持つ花弁と同じ色だ。
「ねえ小猫、関所で花を育てるって珍しいよね? ……小猫?」
「…………」
華 閻李は木を凝視している。両目を少しだけ細め、何かをかんがえこんでいる様子だった。やがて……
「……思、もしかしたら、僕の力で何とかなるかもしれない」
「え!? それはどういう……あっ、小猫!?」
全 思風の声が届いていないのか、子供は銀の髪を揺らしながら木へと近づく。そっと、腫れ物でも触るかのように、木に手を伸ばした。
コツンと、額を木と合わせる。
「命ある者、花の蜜を吸いし者よ。願いたてまつる。汝が視た記憶を、我に与えたまえ」
高くも低くもない声が、穏やかに問うた。すると華 閻李の体が淡く輝きだす。
全 思風は眩しさに目を閉じた。しばらくすると光は収まり、彼はゆっくりと両目を開く。すると──
『──今日も元気に育てよ。お前は、おっかあがくれた大切な木なんだからな?』
蝋梅の木の前で、男が片膝をついていた。革鎧を着ており、手には水桶を持っている。
後ろ姿ではあるが、全 思風はその男の正体におおよその検討はついていた。
「……もしかして、この男は」
彼が言葉を放つ瞬間、華 閻李に袖を引っぱられる。子供は自身の唇に人差し指を当てて、首を左右にふっていた。
彼はおとなしく従い、黙って男の姿を注視する。
男は膝をあげ、木に触れた。優しい声音で「明日もまた来るからな」と、言う。
水桶を持って踵を返した。現れたのは五十前後の男である。顔には年齢を現す線が浮かんでいた。けれど、とても好感がもてる笑顔をしている。
『さて、と。そろそろ巡回の時間だ。俺は行くからな』
木に語りかけ、花畑を後にした。
転瞬、関所の奥から悲鳴が聞こえてくる。男はハッとし、急いで悲鳴の元へと向かった。
全 思風と華 閻李のふたりは顔を見合せ、男を追いかけていった。




