崩壊寸前の理性と小悪魔の無自覚誘惑
もしも間者がいたのならば、それは間違いなく今回の事件に関わっているのだろう。
しかし間者がいるという証拠すらなく、現段階では全 思風の想像として止まっていた。
「……間者って、誰が?」
彼の真向かいにいる子供は、きょとんとした様子で尋ねる。
全 思風は、これは予想であり確かなことではないよと返答した。
彼の頭の中にあるのは、黒と黄以外の第三者。憶測の域を出ていなくとも、それが一番妥当な答だと伝える。
「ここは黒と黄色、その両方が治める土地だ。そこにこんな大がかりな事をするには、どちらかの族に侵入する必要がある」
旅人や、周辺地域の者もあり得た。しかし村人の場合、危険な目に合うことはわかりきっている。そのような危険を犯してまで、間者として潜りこむ意味はあるのだろうか。
「深い怨みを持っているならあり得たかもだけど……そもそもそんな連中が、こんな手のこんだ仕掛けをするとは思えないんだよね。私の経験上、そういう奴らは、すぐ行動に移すんだよ」
しかし人は予測不能な動きをするものだ。全 思風の考えが及ばぬ者もいる。ただ、間者というものは普通の人間ができることではなかった。
それを視野に入れても、近くの住民にとっては悪いことにしかならないのではないだろうか。
「小猫が夢で見た出来事、あれが真実であるという事を証明するためにも、私は……」
「信じてくれるのは嬉しいけど……どうしてそこまで?」
華 閻李の疑問はもっともだった。それほど、まだお互いを知りつくしているわけではない。特に子供の方は全 思風という男の全貌を知らないままだ。
彼がそれを伝えていないということもあるが、それでもここまで尽くしてもらう理由がないと、申し訳なさそうにショボくれる。
全 思風は一時だけ目を丸くした。けれどすぐに優しく細める。立ち上がって子供の隣まで行き、微笑んだ。
華 閻李の柔らかな髪を掬い、口づけをする。薔薇のように気高いな香りが鼻を通り、彼の脳を刺激していった。
──ああ、まだ私とこの子の間には壁があるようだ。しかたがない事とはいえ、少し寂しいな。
決して表情にはだなさい。それを口にしてしまったら、よけいに目の前の子供を困らせてしまうからだ。
──小猫の困った顔も可愛いけど、見たいという理由だけでしていい事ではないからね。私は、自分よりもこの子が幸せならそれでいい。そう思っているんだ。
「ねえ小猫、私は君の幸せだけを願っている。君が幸せになれるのなら、喜んでこの身を差し出そう。地位だって捨ててもいい。あんなものよりも、小猫が一番なんだ」
我ながら答になっていないなと、心の中で苦く笑う。おくびに出せないことはたくさんあった。けれど短い時間では足りない愛を注ぐことで許されるならと、何度も愛し子を見つめる。
片膝を曲げて、華 閻李という美しい少年を見上げる。慈しむ眼差しを崩さず、子供の小さな両手を軽く握った。
「──小猫、いいや。華 閻李。私はどんな事があろうとも、君を信じ抜く。例え世界中が敵になったとしても、君の心が闇に落ちてしまったとしても、私は未来永劫、ともにいて離れないと誓う」
蝶のように美しく、蜂にも負けぬ強さ。
花を支える幹のように強い意思。
それは、花の本体が華 閻李であるかのように称える姿勢だった。
華 閻李は両目を瞬かせ、ふっと和らいだ微笑みをする。
「ふふ、思ったら。まるで告白でもしてるみたいだよ?」
「こっ……告白!? いや、違っ……わないけど。でもそうじゃなくて、ええっと……」
直前までの頼もしい姿は消え、オドオドとした。慌てて腰をあげる。しかし落ち着きがなさすぎたようで、机の角に足の小指をぶつけてしまった。痛みからくる涙と、情けない姿を愛する子供に見られたショックから、その場に四つん這いになってしまう。
しくしくと泣きながら、座る華 閻李の膝に泣きついた。
華 閻李はくすくすと、優しい笑みを落とす。
「……と、とにかく! 私は君を信じてるって事だよ。わかった!?」
恥ずかしさに正気を取り戻し、耳まで真っ赤にして腰を上げた。そのとき、天井からポタポタと水が落ちてくる。全 思風は「は?」と、すっとんきょうな声をだした。
天井というものがあるのに、なぜ水が降ってくるのか。それを確認するために見上げれば、天井の至るところに穴が空いていた。
「……あー、これは風化してるね」
関所を建ててから一度も修繕をしていないのか。それとも、ここで起きた事件による衝撃でなのか。そのどちらともとれる穴の空きかただった。
「雨、降ってきてるみたいだね。小猫、濡れてしまうから部屋の奥に……うわっ!?」
小雨だったはずなのに、数秒もたたぬ内に本降りとなる。そしてそれは水との相性が最悪な全 思風を、悲劇の連続へと誘った。
あっという間に水溜まりを作った床に足を滑らせ、尻もちをつく。
まだこれだけなら笑って誤魔化せたのだが、災難というものは常に彼に付きまとっていた。
尻もちをついた直後、腰にかけていた剣が鞘ごと外れてしまう。それの先っぽが腹を突き、彼は「うっ!」という短い悲鳴をあげた。
よほど痛かったのだろう。体を丸めて踞ってしまった。
さすがに見かねた華 閻李が手を差しのべ、彼の体はゆっくりと起こされていく。しかし子供の細腕では当然それは無理なわけで……
「わっ!」
「し、小猫!?」
華 閻李と全 思風、対極的な体格を持つ二人は床へと倒れてしまった。
通り雨だったのだろう。二人を濡らした雨は、見る影もなく消え去っていた。
騒がしいほどに忙しかったのが昨日のことのように、静寂だけが生まれている。
「……っ! ごめん小猫、大丈……ぶっ!」
二人の預かり知らぬところで、彼らの立ち位置が逆転していた。
華 閻李は床へ仰向けになり、その上に全 思風が乗っかってしまっている。
華 閻李は非常に美しい少年だ。少女のような線の細さに加え、透き通る銀の髪を持つ。大きな瞳や、病的なまでに白い肌。それらが神秘的で儚げな見目となり、無数の艶を醸し出していた。
そんな子供は恥ずかしそうに、彼へと視線を流す。
「……っ!」
瞬間、全 思風の喉がゴクリと鳴った。
流し目のようなそれは蠱惑そのもの。桃色に火照った頬は、とても子供とは思えぬ色香を放っていた。体を捩った瞬間に現れるのは白い首筋である。
それは、彼の欲望に対する孤独感を甦らせていった。
「し、小猫!」
耳の奥で、理性の箍が外れた音がする。この子供の艶めいた姿に我慢などできようか。
水に濡れた華 閻李が色めく瞬間を、彼は放っておくはずもなく……
「私は……私が、どれだけ我慢しているのか。それをわかっているのかい?」
いつになく高圧的な口調と声を放つ。自身の漢服の襟部分に手を入れ、ぐっと広げていった。
「え!? ちょっ、思!? 何して……」
「理性、外してくださいって言ってるようなも……のぉ!?」
直後、穴の空いていた天井から、一枚の瓦が落下する。それが彼の頭に当たり、目を回してした。そして華 閻李の体の上に倒れこむ。
「え!? ほ、本当に何なの!? ねえ、思ーー!」
華 閻李の驚く声だけが、虚しく夜空を駆けていった。




